総括2016年の文化(後編・上)

 ここで今年日本で作られたテレビドラマに目を向けることにしよう。結論を先取りして言うなら、さまざまなジャンルが花開いているように見えるドラマ界は、市場社会におけるアイデンティティーの強調という傾向にますます収斂している。

 『ゆとりですがなにか』(日テレ、4~6月)は、脚本家・宮藤官九郎が初めて手掛けた社会派ドラマとして注目された。ゆとり第一世代の大手食品会社サラリーマン坂間(岡田将生)、小学校教師山路(松坂桃李)、風俗店呼び込みをしながら11浪中のまりぶ(柳楽優弥)の三人が「レンタルおじさん」(吉田鋼太郎)の媒介とひょんな偶然をきっかけに知り合い、「これだからゆとりは」とレッテルを貼られたり、社会の理不尽な圧力に押し潰されそうになったりしながら奮闘していく、というのが大枠のストーリーだ。

 社会に出てある程度のキャリアを持つ坂間と山路にとって職場は責任と引き換えに様々なクレームを受ける場であり、坂間は部下の山岸、山路は実習生の佐倉先生(吉岡里帆)の彼氏・静磨という年下のゆとり第二世代に怒鳴られても何も言い返せない不安定な立場に置かれている。坂間はサラリーマンでありながら焼き鳥チェーン店「鳥の民」の店長を任され、山路は学級担任を任され、食中毒の後処理や学芸会の配役で苦労してもそれぞれ立場上言えないことばかりだ。二人は不満をレンタルおじさんや仲間たちの前でさらけ出し、その時だけ真の自分に戻る。彼らに比べれば社会との葛藤が少ないように一見見えるまりぶは、ある時坂間の仕事ぶりについてしみじみと言う。

 

「かっこいいよ。自分にとって大事なものなものちゃんとわかってるし、そのためにハードな状況でズタズタに傷つきながら戦ってるし。

 俺さー、あの店[※坂間が働く焼き鳥屋「鳥の民」]の何が好きかってさ、坂間っちの働きっぷりなんだよね。それを見せたかったの、今日職場の奴らに。

ゆとりゆとり言うけどさ、あんなにゆとりのねぇ奴もゆとりなんだぜって。いろんなとこにぶつかって、皿割って怒鳴られて、タレと塩間違えて水道で洗ってさ、いねぇよそんな奴。向いてねぇよ。でもかっこいいじゃん。あの姿見てたら、おれなんかやらなきゃって思うじゃん。自分探してる場合じゃねぇなって。」(第8話)

 

 まりぶは自分の個性や適性を云々せず一生懸命働く坂間の姿勢を間近で目にしたのをきっかけに「自分探し」を諦め、持論だった「入りたい大学」の東京大学でなく「入れる大学」の東京中央大学に入学したことが最終話で明らかになる。

 しかし、焼き鳥屋でのプロポーズを機に恋人の茜(安藤サクラ)とともに会社を辞職し、実家の酒蔵を継ぐという坂間のライフコースが示すのは、坂間は「自分探し」を断念して仕事を選んだのではなく、むしろ仕事こそが「自分探し」の場となっているということだ。

 坂間は会社を辞めた今後も、「鳥の民」を任されていた頃と同じく懸命に働くだろう。時には仲間達に仕事の辛さを打ち明けるだろう。それらの総体を、彼は自分の人生として選択したように思われる。実家で造る酒の銘柄を「ゆとりの民」と名付けたのも言葉遊びにとどまらず、競争熾烈な日本酒市場でも自分は自分の価値で勝負するのだという宣言である。

 では今後も教壇に立ち続けるだろう山路はどうだろうか。最終回で彼は性教育の時間を使って次のように語る。その授業は通常の性教育のイメージとはかけ離れたものだ。

 

 「果たして、完璧な大人っているのかなって、先生思います。例えば、来年山路30です。みんなにとって30歳って言ったら立派な大人だよな。でもね、二十年後、みんなの二十年後、自分たちが30歳になった時、きっとこう思う。『うーわ、まだ全然子供だよ。山路こんなだったのか』って。『彼女いねえ』とか、『バイト行きたくねえ』とか、『まだ童貞だよ』とか、『山路と一緒かよ』とか。みんなのお父さんとお母さん、完璧な大人ですか?寝坊するよね、酔っぱらって喧嘩するよね、おならするよね。体と違って、心の思春期は生きている限り続きます。だから、大人も間違える。なまける。逃げる。道に迷う。言い訳する。泣く。他人のせいにする。好きになっちゃいけない人を好きになる。すべて思春期のせいです。大人も間違える。そう、間違えちゃうんだよ。だから、他人の間違いを、許せる大人になってください。」(最終話)

 

 山路の提出する大人像は決して完璧な大人ではない。決して甘くはない社会の中で働き、迷い、間違い、傷つき、傷つける人生の総体を、彼は「心の思春期」として力強く肯定してみせる。坂間も、山路も、まりぶも、未だ心の思春期を生きている。彼らは現実から離れることなくその中で自分探しを続け、「ゆとりですがなにか」とまぶしいほどに居直っているのだ。

 

 三谷幸喜脚本『真田丸』(NHK、1~12月)もまた、時代劇・大河ドラマでありながら「心の思春期」を生きる主人公を描いた作品である。主人公真田信繁堺雅人)は、青年時代までは調略の名手である父・真田昌幸草刈正雄)の存在に圧倒され、大坂に上ってからは豊臣秀吉小日向文世)の世話や他武将との調停に追われ、秀吉死後は石田三成山本耕史)の暴走をとどめ、と歴史の大きな動きに流されながら常に二番手・三番手の道を歩んできた人物である。関ケ原の戦いで豊臣方に付き九度山に幽閉を申し付けられるのも、徳川家康内野聖陽)の念頭にあるのは昌幸の存在であり、信繁は父に連座させられたにすぎない(実際、以下の場面で家康は信繁をほとんど見ずに昌幸に語りかけている)。

 

 「戦には勝ったのになぜこのような目に遭わねばならぬのか、さぞ理不尽と思うておろう。その理不尽な思い、さらに膨らませてやる。わしはおぬしから一切の兵と馬と武具と金と城と、そして今後戦に出る一切の機会を奪う。残りの人生を高野山の麓の小さな村の中で過ごすのだ。一、二年で帰って来られるなどとゆめゆめ思うでないぞ。十年になろうが二十年になろうが、おぬしは死ぬまでそこにおるのだ。この生き地獄、たっぷり味わうがよい。真田安房守、二度と会うことはなかろう。」(第37話「信之」)

 

 この家康のセリフが画期的だったのは、大河ドラマの中で、武将にとって戦をすることは必要でも正義でもなく生きる甲斐であると正面から宣言した点だ。『ゆとりですがなにか』の坂間にとって仕事が自分探しの不可欠の要素だったように。戦の機会を奪われ抜け殻のようになった昌幸の死後、『真田丸』は「戦に出る=生きがいを求める」か/「九度山村に残る=家庭を取る」かの困難な選択を下す信繁に焦点を当てる。そして信繁に決断を促す役割を担うのが、作品中での視聴者代表と言ってよい(彼女だけはなぜか現代語で話す)きり(長澤まさみ)である。

 

きり「あなたに来て欲しいと思ってる人がいるんでしょう?助けを求めている人達がいるんでしょう?だったら」

信繁「私に何ができると言うんだ。」

きり「ここで一生終えたいの?あなたは何のために生まれてきたの?」

信繁「私は幸せなんだ。ここでの暮らしが。」

きり「あなたの幸せなんて聞いてない。そんなの関わりない。大事なのは、誰かがあなたを求めているということ。今まで何をしてきたの?小県にいる頃は父親に振り回されて、大坂に来てからは太閤殿下に振り回されて。」

信繁「振り回されていたわけではない。自分なりに色々と考え、力を尽くしてきた。」

きり「何を残したの?真田源次郎がこの世に生きてきたという証を何か一つでも残してきた?聚楽第の落書きの咎人、とうとう見つからなかったわね。沼田を巡って談判もしたけれど、最後は北条に取られちゃった。氏政様を説き伏せに、小田原城に忍び込んだみたいだけど、氏政様が城を明け渡したのは、あなたの力ではないですから。後から会いに行った、なんとか勘兵衛さんのお手柄ですから。

何もしてないじゃない。何の役にも立ってない。誰のためにもなってない。」

信繁「うるさい!」(第40話「幸村」)

 

 しかしこの直後信繁はきりに礼を言い、名前を「幸村」と改名、九度山村を抜け出して大坂城に入る決断を下す。当時の大坂城は秀頼・茶々を中心とする豊臣家と豊臣恩顧の大名の他、諸国から集まった牢人達で膨れ上がり、複雑怪奇な組織となっていた。請われる形でやってきた信繁は父譲りの策を練ってイノベーションをもたらそうとするが、茶々などの度重なる反対に合って撤回を余儀なくされる。しかし信繁は「最後まで望みを捨てぬ者にのみ、道は開ける」と信じ、変更案を提出し続ける。『半沢直樹』(TBS、2013年)で大組織の中の中間管理職を演じた堺雅人の面目躍如とするところだ。しかし豊臣側にしてみれば、信繁の登用は持ち札の中でベターな選択をしたにすぎず、あくまで彼は社会の中で代替可能な武将の一人なのだ。当然、信繁の提案は通らない。

 信繁は大坂冬の陣・夏の陣で大軍を率いて徳川軍と戦うという武将として最高の生きがいを得るが、その代償に命を落とすことになる。最終回、信繁は出陣の直前に「私は私という男がこの世にいた証を何か残せたのか」と問いかける。答えるなら、上杉景勝遠藤憲一)に「武将に生まれたからには、あのように生き、あのように死にたいものだ」と言わしめた信繁の「見事な戦いぶり」は、見る者に証を残したと十分に言えるだろう。しかしそれが信繁の家庭の幸福や生命を贖ってまで手に入れるべきものだったかは重い問いである。たとえ勤め先がブラック企業でも、人は自らの仕事を果たすべきなのか、果たそうとしてしまうのはなぜなのか。この問いの構成は、『真田丸』をまぎれもなく2016年の作品にしている。

 信繁が最後まで望みを捨てず晴れやかに振る舞うからこそ一層、味方であるはずの豊臣側から「徳川に寝返った」と信用されず、アイデンティティーであるはずの策を発揮する余地もなくなり進退窮まって一直線に突撃していく姿に悲壮感が漂う。上杉景勝とともに「さらばじゃ!」と信繁に別れを告げ、われわれは再び現代を舞台とする作品に戻ることにする。(つづく)

総括2016年の文化(中編)

 2016年の夏はポケモンGOとリオオリンピックの夏でもあった。7月22日に日本でサービス開始されたポケモンGOは、スマートフォンの中の日常の風景に違和感なくポケモンを溶け込ませポケモン世代を熱狂させた。約1ヶ月後、8月21日のリオ五輪閉会式では逆に、実物の安倍首相がマンガやゲームの画面に入り込み、マリオとなって東京からリオまで駆けつけてみせた。USJのアトラクションであれPerfumeのライブであれ先端技術の作り出すリアリティーは現実と対立するものではなく、現実と共存する「拡張現実」を構成し、もはやわれわれの現実の一部となっている。

 

 この夏封切られた東宝映画作品『シン・ゴジラ』は、「ゴジラのいる東京」という拡張現実を先端技術で表現し得たことにより大成功した。映画館を後にしてなお、皇居を睨んだまま凍結しているゴジラをポケストップさながら東京駅丸の内口に幻視する者も多かっただろう。「完全生物」と再定義されたゴジラの荒唐無稽な強さに、観客は初代『ゴジラ』に怯えた60年前の人々のように真の恐怖を味わったが、それはCG・モーションキャプチャー・特撮を初めとする繊細な技術の裏付けがあったからだ。

 今回のゴジラの最大の特徴は第四形態まで「進化」を遂げていくことであり、またその過程がCGのコントロールにより現実の映像のようなリアリティーで迫ってくることだが、それは制御化で核反応を増大させていきエネルギーを取り出す原子力と類似する。「ゴジラは人類の存在を脅かす脅威であると同時に、無限の恩恵を示唆する福音でもあるということか」という矢口蘭堂のセリフもゴジラ原子力の比喩を強化している。

 

 しかし、進化するのはゴジラだけではない。ゴジラに対抗する政府側の質が、後半に進むにつれめざましく向上していくのだ。前半、大河内首相率いる内閣は「想定外」の事態に追われて何もできず、学者陣も与えられた入力に決まった出力しか返せない硬直ぶりを示す。大人数での会議も赤坂補佐官が言うように「結論ありきの既定路線」で何も新しいものを生み出せない。

 ところが、二回目の上陸で内閣首脳を乗せたヘリが撃墜され東京が破壊されてから、矢口主導の巨災対を中心として日本政府は見違えるように「進化」していく。フランスの圧力を通じて核爆弾投下へのカウントダウンを延期したのを見て、アメリカ人議員もヘリでカヨコ・アン・パターソンに「日本がこのような外交をするほどに成長したとは―。」と語るほどだ。巨災対は、牧教授の遺した「君らも好きにしろ」という原理で結束したような集団であり(森課長も立ち上げの時「まあ好きにやってくれ」と言っている)、そこでは専門分野を持つ各人がアイディアを話し、それが核反応のように次のアイディアを生んでいく。

 ここで賞揚されているのは、クリエイティビティーを有する個人が集まって起こすイノベーションだ。『シン・ゴジラ』の結末では、硬直した従来の政治手法でなくクリエイティブな労働こそがゴジラを凍結させる。

 

「気落ちは不要!国民を守るのが我々の仕事だ。攻撃だけが華じゃない。」

「礼は要りません。仕事ですから。」

「さあ仕事にかかろう!」

 

 このように、『シン・ゴジラ』には仕事に関わるセリフが多く存在する。しかし、「政治は敵か味方しかいない。シンプルだ。性に合ってる。」と語る矢口を真似ると、『シン・ゴジラ』には矢口の性に合わない仕事と性に合う仕事が描かれている。

 後者はもちろん、「ヤシオリ作戦」に収斂していくクリエイティブな労働=仕事だ。巨災対メンバーや外交に当たる里見首相代理・泉政調副会長ら政府の人間はもちろん、新幹線、米軍戦闘機、在来線、高層ビル、クレーン車といった物たちまでが、普段は考えられもしない=クリエイティブな役割を与えられ、危機回避に貢献する。

 前者は、巨災対が使った部屋を片付ける清掃夫やお茶を出してくれる掃除のおばちゃん、矢口の汚れたシャツをクリーニングする業者、そして何より大河内内閣下の官僚たちの行う「単純労働」だ。これらの労働は、多くは描かれすらせず、または描かれても映画全体の中で意味を与えられない「部分を構成しない部分」をなしている。矢口が「わが国の最大の力は、この現場にある」と演説する時、言葉の裏で「単純な」労働しか行えない労働者は現場にいる必要がないというメッセージを発しているのだ。 

 『シン・ゴジラ』は高い評価を獲得したが、作品を褒める者の口調にまで、「火力/原子力」「単純労働/クリエイティブな労働」の二分法的思考枠組が浸透してはいなかっただろうか。「前作までのゴジラゴジラ映画を単純に反復しているだけだったが、『シン・ゴジラ』は新しいアイディアと工夫に満ちていた真のゴジラ映画だ」、と。これがわれわれの現在である。そして、だからこそ『シン・ゴジラ』は2016年に生み出されたのだ。

 

 同じ夏、『シン・ゴジラ』から約1ヶ月遅れて公開され、瞬く間に興行収入を追い抜いてしまった作品がある。同じ東宝映画作品『君の名は。』だ。公開直前に安倍首相が地球の反対側でPRしたジャパニメーションの実力を示すように、新宿や飛騨地方の風景が本物と見まがう精緻さで描かれ、しかし決して写真にはないノスタルジーが画面に溢れている。デジタル技術が可能にした「拡張現実」のリアリティーは、映画内の出来事を単なるファンタジーにとどめず、われわれの世界の問題として意識させるのに十分だった。

 『君の名は。』で飛来するティアマト彗星は1200年周期で動いており、人間のスケールでは測れない存在であることが明らかにされている。主人公の瀧と三葉は二人で彗星墜落による糸守村民死亡という大災害を起こさないように努力するのだが、本来高校生の努力では何も対抗できないはずのカタストロフィーに対して、彼らに武器として与えられているのがアイデンティティーである。三葉は宮水家という巫女の血を引く者としてヒロインであり、彼女に東京で見初められた瀧は「見初められた」という一点のみでヒーローの有資格者となっている。そして彼らは時を超えて入れ替わるという特性を持ち、入れ替わりにより生じる時間差を利用して大災害を未然に防ぐ。

 不思議なのは、瀧と三葉が電車で出会ったから入れ替わるようになったのか、入れ替わるから三葉が瀧に会いに行ったのか、鶏が先か卵が先かの要領で決定不能になっていることだ。糸守の人々の死に関しても、そもそも大災害がなければ瀧が終盤口噛み酒を飲んで彗星墜落前の糸守に向かおうとするはずはなく矛盾が生じるという意味で、起こったのか起こっていないのか観客は最後まで決定できない。それは彼ら二人の記憶の中では起きており、新聞記事という公定の歴史では「全員避難」と報道される出来事なのだ。三浦玲一はカズオ・イシグロの小説を分析しながら歴史と記憶の違いを次のように述べている。

 

 端的にその違いをのべれば、歴史は、普遍性に開かれており、誰にとっても客観的な判断の対象となるもの、そして、それに対しては真偽判断が可能だと思考されるものである。対して、複数形の歴史もしくは記憶は、同じアイデンティティーを持つ者のみに開かれており、追体験することによってしかそれは正しく理解されることはなく、その追体験の対象としての記憶とは、その真偽を問うことに本質的な意味がないものである。(『村上春樹ポストモダン・ジャパン』p.61)

 

 大災害は起こったのか起こっていないのかという先ほどの問いに戻るならば、それは二人の「前前前世」でのみ起こったのだ。災害で命を落としていたはずの住民は、たまたま村に三葉がいたから、そして瀧と三葉が愛し合っていたから、避難に成功し偶然生きられることになった。しかし彼らは当然「自分たちは瀧と三葉のおかげで助かった」とは気づいていない。その功績もまた、二人の「前前前世」の中のみの話となる。二人の本当の価値は、二人にしかわからない。そして二人ともいつか互いの名も顔も記憶から消してしまう。

 『君の名は。』はアイデンティティー・モデルの自己実現を描くことで、クリエイティブ経済の典型となっている。周囲は気づいていないが、彼らは価値を持っている(何せ一つの村の住民すべてを救ったのだから)。三葉は自分が巫女であることをパッケージ化し宣伝すれば全国に口噛み酒を売り出せると妄想する。瀧はもう慣れ切ってしまったバイトのレストランを辞め、高校時代から興味を持って本を読んでいたクリエイティブな建築業界を志望し就職活動する。友達が内定を増やしていく中、スーツも似合わないし内定も取れていないが「人の心に残る風景を残したい」と強調することは忘れない。記憶の中の名も知らぬ彼女が、自分の価値を知ってくれているのだから。

 『君の名は。』は人の縁をつないでいく糸のイメージで満ちているが、同時にそれがどれだけ弱く細い糸かということも、都市と地方という対比を含めて描いている。安倍マリオが一瞬で通り抜けてみせたこの世界を、われわれは不可能な愛だけを救いとして生きるほかないのだ。ラストで瀧と三葉を出会わせたのは作り手の優しさだろうか批評精神だろうか。いくら飯田橋駅がリアルに描けていても描かれる出来事は彗星衝突や入れ替わり以上のファンタジーでしかない。映画館を後にしたティーンエイジャーが、まだ見ぬ君の名を求めて拡張された現実を生きるとすれば、われわれは彼に何か言葉をかける資格があるのだろうか?(つづく)

総括2016年の文化(前編)

 都市に対する郊外の、ホワイトカラーに対するブルーカラーの勝利―世界史的には、イギリスEU脱退(6月)とドナルド・トランプ合衆国大統領誕生(11月)を決定して先進国内部の格差を浮き彫りにした2つの選挙で記憶されるだろう今年は、日本にとってはどんな年だっただろうか。暮れも押し迫る今、2016年の日本を、1年を象徴する(と個人的に判断する)出来事や作品で振り返ってみたい。

 

 そもそも今年は、平成の連続性を象徴する存在が双方とも消滅を云々された、平成日本の特異年だった。天皇SMAPである。8月8日に発表された現天皇のいわゆる「お気持ち」と、8月14日未明に発表された「SMAP解散決定」速報は、ついに来るべき時が来たという思いを全国民に抱かせた。天皇が退位の意向を抱いていることは以前から明らかにされていたし、SMAPについても1月18日「SMAP×SMAP」生放送でメンバーが公式に解散を否定しても画面の「ポール死亡説」を思わせる演出(木村拓哉のみ白ネクタイ着用、等)が言葉を裏切ってメンバー間の溝を視聴者に伝えていたからである。しかし、様々なしがらみや国民=ファンの願望を背負っているがゆえにただ「辞めます」と言うだけでは辞められないこの二つの存在は、職場の事情や関係者の期待を背負うため「辞めたくても辞められない」日本の労働環境と正確に呼応してはいなかったか。

 

 この夏、第155回芥川賞を受賞した村田沙耶香『コンビニ人間』は、学生時代に周囲に馴染めなかったがコンビニのアルバイトに自分の居場所を見つけ、その後18年間同じ店でバイトを続けている女性が語り手である。彼女がオープン当日のコンビニで自分の存在意義を発見する場面は次のように(感動的に)描かれている。

 

 「いらっしゃいませ!」

 私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。

 そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。(p.20)

 

 語り手は周囲から奇異の目を向けられるのを避けるため、18年間バイト以外就職も結婚もしていない理由を(妹の知恵を借りて)「体が弱いから」と通している。彼女は社会に対する都合良い言い訳として白羽さんというコンビニをクビになったダメ男を家に住まわせるまでになり、その延長で「おめでたい門出」を装ってコンビニも辞めることにする。しかし辞めた途端、彼女は何をしてよいかわからず世界と切断されているように感じ始め、新しい仕事の面接前にふと立ち寄ったコンビニで勝手に棚の並び替えを始めてしまう。

 

 「気が付いたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べて行けなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです。」(p.149)

 

 注目すべきは、『コンビニ人間』の語り手がレジ打ちなどの単純労働のみを機械的に反復しているのではないということである。彼女は陳列の組み合わせを変えることで商品の売り上げが飛躍的に伸びたり、接客サービスの良さを店長に褒められたりすることにこそ喜びを感じている。文芸思想家の三浦玲一はリチャード・フロリダの「クリエイティブ経済」やネグリ&ハートの「生政治的な生産」という概念を援用し、1990年代以降「アイデンティティの労働が価値を生む」という思考が定着したことをハリウッド映画の分析を通して説得的に述べている。

 

 そして、フロリダもハートもネグリも、尽きることなき泉からこんこんと湧き出る水のような夢のエネルギーとして喧伝された原子力が、まるで(鉄腕アトムのように)人間の内部に移植されたとでもいうように、実質的に、無限のエネルギーとしての内在性/クリエイティヴィティが、これからの富の源泉となると主張している[]。それは、われわれの生においてもっとも重要なことは、自身のアイデンティティを維持・管理することだという思考であり、言い換えれば、アイデンティティの維持・管理さえ行われていれば、(それ以外の労働なしでも)われわれは生存し続けることが可能であり、可能であるべきであるという思考である。(『村上春樹ポストモダン・ジャパン』p.57-58)

 

 ここで三浦が「新しい労働」観の誕生を原子力の比喩と並行させていることは重要だ。それはただちにわれわれを、今年の日本映画を代表する2本の作品に導くからである。(つづく)

第5回天上天下唯我独奇書読書会開催のお知らせ

< etml:lang=ja >

< README >

まず、わたしの企画から説明せねばなるまい。

必要なのは、何をおいてもまず、奇書だ。

 

こんばんは、Nicoです。次回奇書読書会は第2シーズン1周年のアニバーサリー会となります。内容も、第4回『薔薇の名前』で出てきたホームズ物を引き継ぎつつ、第3回『優雅で感傷的な日本野球』の「野球」テーマでデビュー(『オブ・ザ・ベースボール』)した作家ということで、これまでの集大成的なものとなるのではないでしょうか。新年早々新たな気分でぜひお越しください。

 

日時:2017年1月7日(土)14:00~17:00

場所:新宿「らんぶる」地下席

課題奇書:伊藤計劃円城塔屍者の帝国』(単行本・文庫本どちらでも可)

 

お題は、「この(未完の)作品で伊藤計劃が問おうとしたことは何か?この(完成した)作品で円城塔が答えたことは何か?」です。

初めて参加しようと思われる方は、@bachelor_keaton までご連絡を。

では、良い旅を。

< BURNME >

< / etml>

第4回天上天下唯我独奇書読書会のお知らせ

奇書だ、当然のことながら。

 

全国4000万の奇書ファンのみなさま、こんばんは、Nicoです。来る土曜日、先日亡くなった奇書作家を追悼する意味も込め、いよいよ「あの」本を取り上げて奇書読書会を行うこととなりました。深夜課の真っただ中ですがしばし告知の時間を頂きます。

 

第4回天上天下唯我独奇書読書会

日時: 10月8日(土) 14:00~17:00

場所: 本郷三丁目レンタルスペース「Albo」

(東京都文京区本郷4-2-12 芙蓉堂第3ビル2階 

 ※本郷三丁目交差点の鳥居を抜けて左のビル2階)

課題書: エーベルト・ウンコ『薔薇の名前』(上・下、東京創元社

 

当日は16時まで読書会、その後ウンコ原作、コーン・ショネリー主演の映画『薔薇の名前』を1時間ほど鑑賞する予定です。途中離脱・途中参加歓迎、食べ物飲み物持ち込み可ですのでウンコマニアの方も「ウンコはちょっと…」という初めての方も奮ってご参加ください!

なおこの企画に場所代だけで1万円、お車代入れると5万ドルの私費を投じてるので、参加される方で内容にご満足いただけた方にはカンパをお願いすることをあらかじめご承知願います。拙僧ドミニコ会でもフランシスコ会でも反キリストでもない清貧なので数百円で十分ですが。

 

では、今回のお題を。

「ウィリアムは、結局何を解決したのか?」

 

14世紀でお待ちしております。

Nico

匣はもう開いている ―『匣の中の失楽』論

 

【本稿には、『匣の中の失楽』の真相に触れた記述があります!未読の方は読了後お読み下さい。ページ数は講談社文庫『新装版 匣の中の失楽』に基づきます。】

 

 言語哲学ジョン・サールに「中国語の部屋」と題する奇妙な思考実験がある。人工知能を人間と見分ける、いわゆるチューリング・テストの応用形だ。窓のない部屋に中国語を解する中国人が閉じ込められており、もう一方のやはり窓のない部屋には中国語の会話をシミュレートする人工知能を持ったコンピューターが設置されている。人間であるあなたは部屋の外から中国語の質問を発し、語学運用能力がほぼ同等の応答を文字で双方から得る。さてこの時、あなたは応答のみからどちらが人間でどちらが人工知能か、正しく見分けることができるだろうか?

 

 サールは「外部の観察者の立場からすれば、形式的なプログラムを実現することによって、あたかも中国語を理解するように振る舞うことはできるが、にもかかわらず、中国語をひとことも理解してはいない。…コンピューターは統語論を持つけれども意味論は持たないのです。」(『心・脳・科学』)と原理を振りかざすことで自らの問いに性急に答えを出してしまう。しかし本当にサールの思考実験が不気味なのは、真に思考し理解している人間と「人間らしさ」を模倣しているだけのプログラムを、「外部の観察者」が弁別できないという点なのではないか。それは章ごとにリアリティーの水準が入れ替わり、生身の人間が生きている「現実」と、名前だけが同じの「人形」にすぎない「小説」の、文字情報だけを受け取る外部の「読者」にはどちらがどちらであるか容易に判定できない『匣の中の失楽』の不気味さと通底している。『匣の中の失楽』が図地反転的な構造を持っていることは、小説中の人物が自己言及的に指摘してもいる。

 

 「ハハン、しかし、実際には何も知らない読者としてこの小説を読むなら、それこそこの小説に描かれたふたつのストーリーのどちらが現実か、という点から考えねばならんことになるぜ」

  すかさず布瀬がまぜっかえすと、思わず羽仁もつられたように、

 「だけど、布瀬。実際のことを何も知らない読者なら、片方が現実に忠実に描かれていることも知らない訳だから、どっちが現実の出来事か、なんてことは考える筈がないよ」

 「いやいや、そんなふうに誤解してもらうと困るな。吾輩の今言った現実とは、飽くまで小説上の現実ということだぜ。考えてみれば判ることだ。見知らぬ読者がこの小説を読んだ場合、一体どちらのストーリーが現実だろうと考えるのは、ごくごく自然な気持ちではないかね」(四章、p.469)

 

 布瀬の示唆にならい、「小説上の現実」を確定する作業に取りかかるとしよう。知られるように、『匣の中の失楽』の構成は次のようなものである。不吉な序章に続き一章で曳間了が死ぬ事件が起き、しかし二章では登場人物が(これまで読者が読んできた)序章・一章をナイルズの小説『いかにして密室は作られたか』として読み終える描写で始まる。一章で「死んだ」曳間もコメントを加えさえする。二章の続きでは真沼寛が密室から消失するが、三章内では二章までの小説が朗読され、曳間はやはり死んでいて真沼消失は起きていない。この交代劇が五章まで続き、一章ごとに「現実」と「小説」が反転していく構成を取っている。

 このため、現在までこの作品を論じるにあたって、「一章・三章・五章」の系列と「二章・四章」の系列を立て、いずれが「現実」でいずれが小説か、という形で問題を立てる組み立てが主流となっている。またこの際、最終的な(=ミステリー的な)謎解きがなされているように見える五章を「現実」と捉え、遡行して一章・三章を「現実」と確定する手続きが取られやすい。しかし、「奇数章は現実、偶数章は小説」という形で不連続線を発見する性急な二分法に対して、筆者はここでささやかな異議を差し挟みたい。(未完)

B級映画は君に語りかける(2)-『激突!』

 『激突!』と人間の条件

 

 「僕ら二人で、どこへともなく乗っていく / 誰かが必死に稼いだ金を使いながら」

   ― The Beatles, “Two of us”

 「ディーンは路上(ロード)の人間だった」

   ― Jack Kerouac, On The Road

 

 『激突!(Duel)』はドライブ中に巨大なトレーラーを抜かしたことにより逆に執拗に追われることになる男の話だ、と不当にも理解されている。いわく、数少ない登場人物と車二台でも才能さえあればサスペンス映画は撮れる、と。いわく、トレーラーの運転手を画面に映さないのが利いている、後に『ジョーズ』でサメの全身をなかなか見せない手法の萌芽だ、と。しかし『激突!』は、巨匠のフィルモグラフィーを振り返ってその起点としてのみ価値がある作品ではない。言うまでもなく、『激突!』は傑作である。だがそれは、新人監督が新人なればこその感性で、現代を生きる人間の闘争を描いたからこそ、かろうじて傑作となり得ている映画なのだ。

 

 『激突!』の主人公―象徴的にもディヴィッド・マン(Mann)という名である―の置かれている状況、それは故郷喪失と、生活の形を取った「戦争」である。映画の最初のシーンは、暗闇と近づく男の足音、ドアの開閉音、車のエンジン音、バックするとともに射し込んでくる光、という車視点の音と映像で構成されている。車が後退することで明らかになるのは、今まさに車が郊外に建つ白い一軒家から出て行こうとしていること。そして車は「STOP」「TURN」などの交通標識を通り過ぎつつ、郊外から都会へ、都会から荒野へと、止まりも引き返しもせずに直進し、家から離れていく。暗闇からのフェードインで始まった『激突!』は、どことも知れぬ場所で帰る方法を失ったマンを包む暗闇へのフェードアウトで幕を閉じる。「6時半には帰ってね」という電話での妻の要求は宙に浮いたままだ。

 車が街を走る間、車内にはラジオの交通情報が流れている。サンディエゴ・フリーウェイやらサンタアナ・フリーウェイの事故やら様々な場所の混雑状況を淀みなく話してみせる「ドン・エドワーズ」なる人物は、どうやら「KBMJ’s eye in the sky」という上空カメラからの映像を見ているようだ。上空からの「世界視線」にマンは常時さらされている(『激突!』の監督はオールロケで行われた撮影中、上空から見て道のどこで何が起こるかを記したプラン=平面図を宿泊していたモーテルの壁一面に貼っていた)。自分が監視され、いつ攻撃されるかわからない恐怖。トレーラーを明確に「敵」と認識した後逃げ込むように入った軽食堂のトイレで、マンはこう独白している。

「And then one stupid thing happens. Twenty, twent-five minutes out of your whole life, and all the ropes that kept you hanging in there cut loose. And it’s like, there you are, right back in the jungle again.」(強調筆者)。

 マンが「悪夢は終わった」と切り替えてトイレを出ても、店の客が自分を監視しているという妄想はやまず、一人の男をトレーラーの運転手と早合点して殴り合いに至ってしまう。惰性で生きていけているように思える生活のただ中に、あらゆるロープが切り離され、ふとしたきっかけで「ジャングル」(マンのベトナム体験を暗示している)は出現する。映画の中盤、風変わりな老婆によりガラスケースで飼育されている蛇がトレーラーの侵入により脱走し、タランチュラがマンの足に飛び付くのは日常の「戦争」化、「戦争」と化す生活の寓喩である。マンというキャラクターは、帰るべき家庭から遠く離され、終わりなき日常を戦うことを余儀なくされるわれわれ現代人の生の条件を示している。

 

 生活の形を取った「戦争」、と書いた。マンとトレーラー運転手との映画的な競争など、この見えざる「戦争」に比べれば何ほどのことはない。むしろマン自身、最初はトレーラーとの抜かし合いを「play games」と表現し楽しんでいたではないか。フロントガラスというスクリーンに巨大なトレーラーが前を走るのを見て軽い気持ちで抜かし、バックミラーというスクリーンに追ってくるトレーラーに自己の幻想を投影して恐怖に駆られる、マンはここでも映画館でスクリーンの幻影を楽しみ余暇を消費するわれわれと同じ感性の持ち主だ。映画全体を通して、マンは自分が戦う大きな「戦争」を、トレーラーとの「決闘(Duel)」に矮小化し、それに勝利することで本来終わらないはずの「戦争」に偽りの「終わり」を作り出し、気晴らしを行っている。まるでわれわれのように。

 では、マンが生活の中で真に戦っている「戦争」とは何か。それはアイデンティティの戦争である。(つづく)