B級映画は君に語りかける(2)-『激突!』
『激突!』と人間の条件
「僕ら二人で、どこへともなく乗っていく / 誰かが必死に稼いだ金を使いながら」
― The Beatles, “Two of us”
「ディーンは路上(ロード)の人間だった」
― Jack Kerouac, On The Road
『激突!(Duel)』はドライブ中に巨大なトレーラーを抜かしたことにより逆に執拗に追われることになる男の話だ、と不当にも理解されている。いわく、数少ない登場人物と車二台でも才能さえあればサスペンス映画は撮れる、と。いわく、トレーラーの運転手を画面に映さないのが利いている、後に『ジョーズ』でサメの全身をなかなか見せない手法の萌芽だ、と。しかし『激突!』は、巨匠のフィルモグラフィーを振り返ってその起点としてのみ価値がある作品ではない。言うまでもなく、『激突!』は傑作である。だがそれは、新人監督が新人なればこその感性で、現代を生きる人間の闘争を描いたからこそ、かろうじて傑作となり得ている映画なのだ。
『激突!』の主人公―象徴的にもディヴィッド・マン(Mann)という名である―の置かれている状況、それは故郷喪失と、生活の形を取った「戦争」である。映画の最初のシーンは、暗闇と近づく男の足音、ドアの開閉音、車のエンジン音、バックするとともに射し込んでくる光、という車視点の音と映像で構成されている。車が後退することで明らかになるのは、今まさに車が郊外に建つ白い一軒家から出て行こうとしていること。そして車は「STOP」「TURN」などの交通標識を通り過ぎつつ、郊外から都会へ、都会から荒野へと、止まりも引き返しもせずに直進し、家から離れていく。暗闇からのフェードインで始まった『激突!』は、どことも知れぬ場所で帰る方法を失ったマンを包む暗闇へのフェードアウトで幕を閉じる。「6時半には帰ってね」という電話での妻の要求は宙に浮いたままだ。
車が街を走る間、車内にはラジオの交通情報が流れている。サンディエゴ・フリーウェイやらサンタアナ・フリーウェイの事故やら様々な場所の混雑状況を淀みなく話してみせる「ドン・エドワーズ」なる人物は、どうやら「KBMJ’s eye in the sky」という上空カメラからの映像を見ているようだ。上空からの「世界視線」にマンは常時さらされている(『激突!』の監督はオールロケで行われた撮影中、上空から見て道のどこで何が起こるかを記したプラン=平面図を宿泊していたモーテルの壁一面に貼っていた)。自分が監視され、いつ攻撃されるかわからない恐怖。トレーラーを明確に「敵」と認識した後逃げ込むように入った軽食堂のトイレで、マンはこう独白している。
「And then one stupid thing happens. Twenty, twent-five minutes out of your whole life, and all the ropes that kept you hanging in there cut loose. And it’s like, there you are, right back in the jungle again.」(強調筆者)。
マンが「悪夢は終わった」と切り替えてトイレを出ても、店の客が自分を監視しているという妄想はやまず、一人の男をトレーラーの運転手と早合点して殴り合いに至ってしまう。惰性で生きていけているように思える生活のただ中に、あらゆるロープが切り離され、ふとしたきっかけで「ジャングル」(マンのベトナム体験を暗示している)は出現する。映画の中盤、風変わりな老婆によりガラスケースで飼育されている蛇がトレーラーの侵入により脱走し、タランチュラがマンの足に飛び付くのは日常の「戦争」化、「戦争」と化す生活の寓喩である。マンというキャラクターは、帰るべき家庭から遠く離され、終わりなき日常を戦うことを余儀なくされるわれわれ現代人の生の条件を示している。
生活の形を取った「戦争」、と書いた。マンとトレーラー運転手との映画的な競争など、この見えざる「戦争」に比べれば何ほどのことはない。むしろマン自身、最初はトレーラーとの抜かし合いを「play games」と表現し楽しんでいたではないか。フロントガラスというスクリーンに巨大なトレーラーが前を走るのを見て軽い気持ちで抜かし、バックミラーというスクリーンに追ってくるトレーラーに自己の幻想を投影して恐怖に駆られる、マンはここでも映画館でスクリーンの幻影を楽しみ余暇を消費するわれわれと同じ感性の持ち主だ。映画全体を通して、マンは自分が戦う大きな「戦争」を、トレーラーとの「決闘(Duel)」に矮小化し、それに勝利することで本来終わらないはずの「戦争」に偽りの「終わり」を作り出し、気晴らしを行っている。まるでわれわれのように。
では、マンが生活の中で真に戦っている「戦争」とは何か。それはアイデンティティの戦争である。(つづく)