新作小説時評 (2)

 

 山田詠美の新作「ベッドタイムアイズ」は、肌の柔らかさと金属の硬さが共存し、時に不協和をきたすありようを描いている。語り手キムは黒人兵が「黒い指の間にはちみつがしたたり落ちるかのように金色」(p.11)のグラスを持っている所を見て欲情を抱き、黒人兵のほうは「金色のチェーン」(p.12)を裸の胸につけ、さらに自らの金属性を強調するようにスプーンを持ち歩いて自分の名としている。キムがスプーンと恋に落ちるのは、何よりも硬さに性的に感応したためだ。

 

 偶然ポケットに触れた時、スプーンがビリヤード台の前で、しきりに愛撫していた例の物にぶつかる。それが金属であること、また日常、最も親しんでいる物であるのに気づいた時、私は体の芯にあれが来て、すべての感覚が麻痺してしまった。(p.14) 

 スプーンがポケットにスプーンを持ち歩いているのがなぜそんなに魅力的なのか、読者は疑問に思うべきではない。キムからスプーンへの最大の愛情表現が、ピアス(「チン、という澄んだ音」(p.69)で硬質性が表現されている)をジンで流して柔らかい胃の中に送り込むことで行われ、かわりにスプーンからキムへの愛情表現は硬い歯で左肩の肌に噛み跡を残すことで行われる、これはそんな作品なのである。愛や性とは硬さと柔らかさの配分の別名だ、と作者は考えているように思われる。スプーンの肉体は、日本人男性やマリア姉さんのストリップ小屋にひしめく「軟体動物」(p.18)の柔らかさと対比され、硬さや存在感を強調して描かれている。

 

 彼のディックは赤味のある白人のいやらしいコックとは似ても似つかず、日本人の頼りないプッシィの中に入らなければ自己主張できない幼く可哀相なものとも違っていた。海面をユラユラする海草のような日本人の陰毛は、いつも私の体にからまりそうな気がし恐怖感すら覚えてしまう。

 スプーンのヘアは肌の色と保護色になっているからか、ディック自身が存在感を持って私の目に映る。私は好物のスウィートなチョコレートバーと錯覚し、口の中が濡れて来るのを抑えることができない。流れ出る唾液は、すでに沸騰している。(p.13-14)

 

 しかし上の引用中にある「自己主張できない幼く可哀相なもの」とは、日本人男性一般だけでなくキム自身の自画像でもあり、「海草のような日本人の陰毛」に対する恐怖感は自己嫌悪の裏返しである。キムの使う「卒業証書をちょうだい」や「嵐の月曜日に登校拒否をしないで、浮き立った気分で学校に通えるキッズにすらなれそう」など学校に関係する語彙が象徴するように、キムは導いてくれる教師を求めて生きている「生徒」なのだ。

 

 私はマリア姉さんを見詰める。百年間、貯蔵庫に眠らせて置いた金色の酒を注いだようなトロリとした目をしている。私はいつもこの目に酔わされ自分の醜さを思い、自分の関った男を彼女の手に委ね、確認を頼み、自分を劣等生のように感じ安息を得た。彼女はかわいそうな捨て子の私の、絶対だったのだ。

 そしてスプーンと出会って以来、彼が私の絶対だった。私はいつも、あまりにも無知で海草のようにふらふら頼りなくて指導者を必要としていた。(p.61) 

 

 「かわいそう」で「頼りない」キムは、スプーンの硬さに愛されることによってのみ、その身を金属製のコルネットのように存在感あるものに仕立てられるのだ。「スプーン、私の唇をコルネットを吹くように吹かないで、プリーズ。」(p.51) ここでキムの意識に喚起されているのは2章前で言及されていた「ボールドウィンの小説の中のブラザー・ルーファス」だ(なぜか明言されていないがこの小説は『もう一つの国』であり、ルーファスは開始早々に自殺してしまう)。『もう一つの国』のルーファスが愛を語るためサキソフォンという楽器を必要とするのに対し、スプーンは硬さを持つ自らの肉体で語ることができる。

 

 小説の進行とともに変化する関係性の配分を見てみよう。キムの恋愛は、最初はスプーンに対し優越感を抱くことで始まる。「腐臭に近い、けれども決して不快ではなく、いや不快でないのではなく、汚い物に私が犯されることによって私自身が澄んだ物と気づかされるような、そんな匂い。彼の匂いは私に優越感を抱かせる。」(p.12-13) しかし二者の関係はすぐに変化し、スプーンはキムに「I’m gonna be your teacher.」(p.28)と上位の教師として振る舞い始め、キムも「私の体にはスプーンという刻印が押されているのは確かだった。」(p.51)と彼の自分に対する優越性を認める。そんな折、スプーンはマリア姉さんと肉体関係を持ち、キムは二人をマリア姉さんのマンションで発見することになる。

 

 海草のような長い髪の毛が彼の足の間に広がり、その間から金色に塗られた尖った爪が覗いていた。その髪はメドゥーサのように今にも一本一本が蛇になって蠢きそうにユラユラと揺れていた。

 マリア姉さんは静かに顔を上げた(p.58)

 

 「海草」のキムを導いていたマリア姉さんの、あまりにも急な「海草」への変貌!ほどなくキムは「愛しているのよ、キム」「ずっと前から愛していたのよ。あんたは私の執着した、ただ一つのものだったのよ」という衝撃的な告白を聞くことになる。ギリシャ神話のメドゥーサは、相手の目を見据える視線で生身の肉体を硬い石に変えるが、ペルセウスの持つ鏡の盾で自分の目を見ることによって自らをも石化させてしまう。本作では目(eyes)で相手を「見る」人物は、必ず相手に視線を返される。そして返された視線によって、メドゥーサが自分の醜い姿を知るのと同じように、自己認識の劇が始まる。

 

私はマリア姉さんを見詰める。百年間、貯蔵庫に眠らせて置いた金色の酒を注いだようなトロリとした目をしている。私はいつもこの目に酔わされ自分の醜さを思い、自分の関った男を彼女の手に委ね、確認を頼み、自分を劣等生のように感じ安息を得た。彼女はかわいそうな捨て子の私の、絶対だったのだ。

 そしてスプーンと出会って以来、彼が私の絶対だった。私はいつも、あまりにも無知で海草のようにふらふら頼りなくて指導者を必要としていた。

 彼女は私を見詰め返した。私は不思議なくらいに冷静だった。[中略]今、私は男を取られた女になっている。私はそう感じている。」(p.61-62)

 

 後の箇所、スプーンとキムとの視線の往復。

 

 スプーンは肘をついて私を監禁し、ゆっくりと目を開け獲物を見降ろした。[中略]「最後まで見届けろ。オレがお前の上に在るって事を」

泣きださずにはいられない。私は悟る。痛みと快感は酷似していると。スプーンを愛する事は私の心に傷をつける。[中略]

 「見るんだ」

 私は、見た。逃れられない。彼の瞳は私のすべてをものにする。(p.72-73)

 

 キムがマリア姉さんを愛していた時、マリア姉さんも実はキムを愛していた。キムはスプーンを「あんたは私の気持のよいシーツだ」と譬える一方、スプーンもキムを「ライナスの毛布」のように、そして「ふわふわして柔らかい」小さな頃飼っていた猫のように思っていた。いずれの場合も、相手が自分と対称的な認識を持っていたことは、キムの認識の埒外に当初あり、キムはそれを遅れをともなって認識する。生徒から見た教師像、教師から見た生徒像は、交点で微妙に交わって交錯している。生徒としてのキムは、彼我の認識に横たわる溝の存在を二人の教師から「学習」するのだ。「私という、ちっぽけな黒板」にスプーンが書いた数式「2 sweet + 2 be = 4 gotten」(p.92)(忘れ去られるには甘すぎる)を、別れの際に痛みを持って学習するのと同様に。キムがスプーンを忘れ去りなどできなかったことは数式より雄弁にこの小説が書かれていることが示しているし、手記の冒頭は認識の隙間の主題から始められている。

 

 スプーンは私をかわいがるのがとてもうまい。ただし、それは私の体を、であって、心では決して、ない。私もスプーンに抱かれる事は出来るのに抱いてあげることが出来ない。何度も試みたにもかかわらず。他の人は、どのようにして、この隙間を埋めているのか私は知りたかった。(p.9)

 

 性描写に着目しすぎるセンセーショナルな読み方では、例えば1985年ならともかく、現在ではこの小説の存在意義を示すことが難しい。「横須賀の基地」という固有名や米軍兵士との恋愛という設定のみを取り上げ、キムとスプーンの恋愛すべてを日米関係の比喩と見なそうとする時代錯誤な欲望にも注意が必要だ。日本人女性と黒人米兵の恋愛という設定、それはボールドウィンが『もう一つの国』を人種・国籍・セクシャリティーの異なる男女五人を中心に書いたのに似た、主題を浮き上がらせるための作者の苦心と見るべきだろう。虚心に読めば、「ベッドタイムアイズ」は柔らかさと硬さの関係性、自己と他者の認識の齟齬をめぐる論理的な小説である。キムとスプーンは隙間を抱えながらも二人で”もう一つの国”を築き上げる。しかしその領土は、スプーンのIDカードを「ジョゼフ・ジョンソン」の本名の下に管理する現実の国家機関の介入によって、あっけなく消滅してしまう。スプーンが去った後、キムに現実の認識が遅れをともなって訪れる。鋭敏すぎるほどの知覚とともに。

 

 そして、何日かたち、人間の感情が戻って来た時、私は冷蔵庫の中の肉が嫌な匂いをさせて腐りかかっているのに気付いた。それを捨てようとトラッシュ缶の蓋を開けた途端、気分が悪くなって吐いた。[中略]私はやっと思い出した。私はスプーンを失ったのだ。私はもうじき死ぬ病人のような呻き声を出して泣いた。スプーン、どこに行ったの?私は気が狂ったように部屋中をひっくり返してスプーンの残して行った形跡を捜し始めた。(p.96)

 

 シーツの染み、パナマ帽に残った髪の毛、食べかけのチョコレートチップクッキー…。今は不在となったスプーンの残滓を数え上げ喪に服する作業として、小説は書き始められた。今読者が読むこの記録は、「ジョゼフ・ジョンソン」ではない「スプーン」が真に存在した証、「もう一つの国」でのIDとなっているのだ。

 

参考文献

 山田詠美『ベッドタイムアイズ・指の戯れ・ジェシーの背骨』(新潮文庫

 大塚英志サブカルチャー文学論』(朝日新聞社、2004年)

 清水良典『デビュー小説論 新時代を創った作家たち』(講談社、2016年)