第8回天上天下唯我独奇書読書会開催のお知らせ

こんばんはみなさん、Nicoです。この年末、半年以上のお休みを経て奇書読書会が帰ってきます!今回読むのは、「人は奇書を読むことはできない。再読することもできない。」という本読みの胸にしみる名言を残したあの作家の、今年いよいよ翻訳された大作です。

 

日時:2017年12月28日(木)17:00~20:00

  (※変更しています!ご注意ください。)

場所:新宿三丁目 軽食・喫茶「らんぶる」地下席

課題奇書:ウラジーミル・ナボコフ『アーダ[新訳版]』上・下(若島正訳、早川書房

 

「ア。アー。アーダ。」のあまりにも有名な書き出しに導かれ、突如挿入される「テラ」をめぐる999行の詩篇に惑わされ、紙背に潜む注釈者の影に脅えながら、ともにこのとてつもない小説を語りましょう。

 

今回初めて参加される方は、Twitterで@bachelor_keatonまでご連絡を。

ここに書きたいもっと、もっと多くのものがありますが、当日までお楽しみに。

 

Nico

City of Words of the Dead

序論

「僕は知るべきすべてを知っている / 僕はジョージ・ロメロからすべてを学んだんだ

 ダリオ・アルジェントトム・サヴィーニスチュアート・ゴードンサム・ライミからも」

 ― Sprites「George Romero

 

 映画はその誕生時から、白と黒との境界線を主戦場にするメディアだった。地である背景から図である人物をいかに浮き立たせるか。白黒二色の濃淡のみで世界を捉えざるを得ない初期の映画作家は、執拗に去来するこの課題と向き合わざるを得なかった。その結果、ほとんど偶然の産物として彼らが発見したのは、現在までハリウッド映画を規定する 「内部/外部の争い」という主題である。

 アメリカ映画の父と名指されるD.W.グリフィスは、代表作『国民の創生(The Birth of a Nation)』(1915)において「内部/外部の争い」を模範的な形でショットの連鎖に構成することに成功した。南北戦争リンカーン暗殺など近代アメリカの様々な歴史的事件にふれる叙事詩的大作のラストは、荒野の中の小屋(cabin)の中に隠れるフィル・ストーンマン(エルマー・クリフトン)や婚約者マーガレット・キャメロン(ミリアム・クーパー)らのキャメロン一家と、彼らを捕らえに荒野から迫りくる黒人達との撃ち合い、そしてフィル達を救いに大挙して駆け付けるKKK、という図式が主になっている。テーブルを倒し支えにすることでドアを死守しようとするフィル達の努力も空しく、黒人達は窓からドアから手を入れ頭を入れ内部に押し入ってくる。もはやこれまで、と思われた矢先、白装束のKKKが馬に乗って駆け付け、小屋の境界は保たれる。『国民の創生』が「ハッピーエンド」の映画として終わることが意味しているのは、小屋の境界がそのまま、内部の者は国民(nation)であり/外部の者はそうではないことを意味する境界になっていることだ。

 後にハリウッドに渡りサイレント末期のアメリカ映画界を代表する傑作を撮ることになるF.W.ムルナウは、ドイツ時代の『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)において境界の主題を映像化している。ブラム・ストーカー『ドラキュラ』を原作とするこの作品で最も印象深い場面は、ジョナサンの妻ニーナが寝室の窓から見える向かいの建物の多くの窓の一つにこちらを見据えるドラキュラ伯爵を幻視する場面だ。街ではペストが大流行しており、役所からは「窓を閉めるように」という布告が出され、サイレント映画のテロップとしても映し出されている。窓は安全/疫病の境界として機能している。にも関わらず、後にニーナは窓を大きく開け放ち、キリストのように両手を広げてドラキュラを迎え入れることになってしまう。

 1960年代以降初期アメリカ映画に顕著だった「内部/外部の争い」の主題を最も忠実に継承し、それによって実質的にアメリカ映画をもう一度復活させた映画作家ジョージ・A・ロメロである。彼のデビュー作 『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド1968)が、家に立てこもり窓やドアを密閉しようとする人間たちと境界を突破して外から迫りくるゾンビたちの死闘を描き、終幕で駆け付ける保安部隊によって黒人の主人公が銃殺されるという、『国民の創生』を反復した内容を持つことは偶然ではない。しかしそこで賭けられている境界はもはや「国民/国民でない者」を分かつ線ではなく、より根源的な 「人間/人間でない物」の境界である。「人間/人間でない物」の境界を探ることで人間の条件をあぶり出すことが、ロメロの生涯のテーマであった。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』でガラス窓としてわかりやすく表象できた境界は、『ドーン・オブ・ザ・デッド』(1978)ではショッピングモールのなめらかなアクリル板となり、『デイ・オブ・ザ・デッド』(1985)では境界を乗り越えるゾンビが現れる。三部作を通して境界の問題は深化し、ゼロ年代の三部作に結実していく。

 ロメロを「ゾンビ映画の父」と顕彰する向きがあるが、正確ではない。ゾンビの導入はもちろん素晴らしいアイディアであるが、ロメロの最大の功績は「内部/外部の争い」を特権的なジャンルとして立ち上げたことである。ほとんど独力でホラー映画とアクション映画の融合に成功したロメロは、「活劇の父」と呼ぶにふさわしい。ここで言う活劇とは、①登場人物たちが家など閉鎖空間に立てこもり、②外部から迫りくる敵と死闘を繰り広げ、③心理の帰趨と何ら関係なく銃による物理的な破壊のみが勝敗を左右する、アメリカ映画のジャンルである。私たちはそうした映画を見慣れているが、それはロメロ以前にはなかったものなのだ。

 ジョージ・A・ロメロは2017716日に永眠した。以下、ロメロの代表作を中心に論じられる各章は、「僕たちがロメロから学んだすべて」の偉大さを示すために書かれている。そして当然ながら、本書『シティー・オブ・ワーズ・オブ・ザ・デッド』は遠からず甦ってくれるだろうロメロ御大に捧げられる。

『マグノリア』の断片と統一

 現代は断片の時代だ。芸術家は誰でも、断片に憧れる。鮮烈な強度を持ち、周囲の文脈から浮上する断片。断片だけで作品ができるならどれだけいいだろう。そんな思いだけからできあがってしまったように思える芸術作品も存在する。

 しかし、ただ断片を連ねることは、物語作者の仕事ではない。断片群はそのままではただの混沌である。いやしくも物語を語る者ならば、断片群を共通性という水平軸(空間)とストーリーラインという垂直軸(時間)の統一性で構成しなければならない。個人の内的発話をそのまま書き記す“意識の流れ”の手法を打ち出した20世紀初頭のモダニズム小説が、一方では登場人物たちの多くが異なる場所から目にするイベントを、他方では時間の流れを可視化するモチーフを持つのは偶然ではなく、構成上の要請のためだと考えることができる。ジョイス『ユリシーズ』でダブリンを練り歩く葬列やウルフ『ダロウェイ夫人』でロンドン上空に現れる飛行機雲は前者、フォークナー『響きと怒り』でのキャディーの変容や同じくフォークナー『死の床に横たわりて』の葬列の進行は後者に当てはまる。  

 映画という芸術は、出自からして1秒24コマの断片からできている。そのため、「モンタージュ」などバラバラなショットを統一する技法への意識も早かった。しかし現代はもはや、統一の時代ではない。各個人が断片的な生活を送るさまをショットごとに描写しながら、スケッチ的な断片をどのように統一感を持つ映画に仕上げるか。この課題を完全に成し遂げた監督として、ロバート・アルトマンの名を挙げることができる(特に空間を限定した『ナッシュビル』と『ウエディング』は傑作である)。アルトマンを深く尊敬する現代の物語作者ポール・トーマス・アンダーソン(以下PTA)は、『マグノリア』(1999)において、①ロサンゼルスを舞台とし、②終盤に登場人物をつなぐ大事件が起きる、③群像映画というアルトマンの『ショート・カッツ』を容易に想起させる映画を撮ってみせた。しかしながら、PTAは真のアイロニーの人であったアルトマンとは異なる特質を持っており、構成にいくつかの特徴がある。これから『マグノリア』を題材に断片と統一の問題を探っていきたい。

 『マグノリア』を見た観客が好んで話題にするのが、「なんでカエルが降ってくるの?」という疑問である。映画の終盤20分で起きるカエルの豪雨は、何のために起こるのか。映画外の、つまり作者の見地から見れば、答えは明らかだろう。「共通経験をもたらし、バラバラの登場人物たちをつなぐため」だ。しかし、『ショート・カッツ』の終盤で無邪気に大地震を起こしてみせたアルトマンの豪放さと異なり、PTAはもう少し慎重な手段を取っている。

 注意して見ると、登場人物を共通経験という水平軸でつなぐモチーフは、カエルだけではない。一つ目は、テレビ番組だ。名物司会者ジミー・ゲイター(フィリップ・ベイカー・ホール)司会のクイズ番組「What Do Kids Know?」は天才少年スタンリー(ジェレミー・ブラックマン)が出演し、死の床にある製作者アール・パートリッジ(ジェイソン・ロバーズ)が出資している。過去にはドニー・スミス(ウィリアム・H・メイシー)がこの番組でクイズ少年として名を馳せ、現在もバーのテレビ画面で見ているし、父ジミーを嫌う娘クローディア(メローラ・ウォルターズ)も父の番組を見ている。そしてテレビにはフランク・T・J・マッキー(トム・クルーズ)のCMも流れている。このように、同じ内容を離れた場所にいる異なる人々に共時的に体験させるテレビは、作品内で人々を知らずしてつなげる働きをしている。

 二つ目に、映画中盤で主要人物全員がエイミー・マン「Wise up」をリレーして歌うまるでミュージカル映画のような場面(名場面)がある。「それは終わらない / 君が賢くなるまでは」と印象的に繰り返されるこの歌は、置かれた境遇は違えど賢く生きられずもがく登場人物一人ひとりの心情を代弁し、作品に共時性と統一性を与えている。  

 このように共通経験を用意したPTAだが、これで十分とは判断しなかったようだ。彼は、垂直軸のストーリーラインにもいくつかの仕掛けを用意し、映画を縫い合わせている。第一に、狂言回しとしての黒人の少年。彼は序盤で警官のジム・カーリングジョン・C・ライリー)に付きまとって殺人事件の手がかりを与えようとラップを披露し、中盤でジムの落とした拳銃を盗み、終盤で気絶しているリンダ・パートリッジ(ジュリアン・ムーア)の車に乗り込んで彼女を助けるかと思いきや窃盗を働いて逃げるという縦横無尽の活躍を見せている。詳しく描かれていないが、黒人女性マーシーのクローゼットにあった死体の件や、最後にジムの元に帰ってくる拳銃の件にも、この少年が裏で関わっているのだろう。彼の存在により、観客は断片群の背後に進行するストーリーらしきものを想像することができる。

 第二に、「82」という数字。カエルの雨に関わる記述は『出エジプト記(Exodus)』8章2節が出典だが、PTAはカエルに至るまでの部分で、まるでそれを出しておけば後でムチャをする免罪符になるかのように画面に「82」を溢れさせている。絞首刑になった三人の囚人の話(以下逸話1と呼ぶ)で囚人の胸につける番号が82、消火活動のため飛行機からダイバーが落とされ死んだ話(以下逸話2)で飛行機の番号が82。ブラックジャックで飛行士が望むカードが2、ダイバーが渡すカードが8。奇妙な自殺の話(以下逸話3)で博士の報告が始まるのが8時20分、屋上から飛び降りる青年の足元にあるロープの形が82、夫婦の部屋番号が682。現在時制の部分では、最初に予報される降水確率が82パーセント。ジムの私書箱のナンバーが8-2。「What Do Kids Know?」の客席で観客が振り回しすぐ取り上げられるプラカードの文字が「Exodus82」、など。クイズ解答者として「数字と牛乳なら任せてくれ」と豪語していたルイス・グスマン氏ならこれらの数字にさぞ喜ぶことだろう。これら時間をおいて出現する「82」は、作品内の「暗合」をもたらす符牒として、序詞のようにクライマックスのカエルの雨を導く機能を担わされている。ジミーが番組冒頭で言っているように、われわれが「信じようと信じまいと(believe it or not)」。

 第三に、「偶然(chance)」の強調。窓の外に降りしきるカエルを見てもまったく動揺せず、達観したように「This is something that happens.」とつぶやき続けるスタンリー少年を、われわれ観客が異常と思わないのはなぜなのか。それは間違いなく、冒頭に語られる3つの挿話とナレーションのみで登場する語り手の効果である。詳しく見ていこう。

 挿話1は、「グリーン・ベイカー・ヒル」という場所で犯罪を行った三人がグリーンとベイカーとヒルだったという話で、作品のタイトルがMagnolia streetという場所を指していることも暗示している。語り手は「I would like to think this was only the matter of chance.」と「偶然の問題」として片づけている。

 挿話2は、山火事のため飛行機で池から水をくみ上げて消火活動したら潜っていたダイバーも落としてしまった、しかも飛行士とダイバーは二日前にカジノで会っていたという話で、池にいるはずのカエルが空から降ってくる伏線になっている。語り手は「And I am trying to think this was all only a matter of chance.」と、先ほどより弱い姿勢ではあるが、これも「偶然の問題」と位置付ける。

 挿話3は、屋上から飛び降り自殺しようとした息子を三階下で夫婦喧嘩していて偶然撃ってしまった母の話で、「家族の困難さ」という全編を覆うテーマが早くも浮上している。そしてこの誰が見ても偶然と思える事件に対して、語り手は突然判断をひるがえすのだ。「This was not just a matter of chance. No. These strange things happen all the time.」 ここには、起こった出来事がstrangeだという認識とともに、挿話1・挿話2と異なって「起こったことは偶然ではない=起こるべくして起きた」という感覚がある。語り手が判断を変えたのはなぜか。それは母が持っていた銃に、弾を込めたのが飛び降りた息子本人だったからである。息子は親同士が喧嘩するのに耐えかね、殺しあえばいいと望んで弾を込めた。奇想天外な自殺に至ったのはstrangeである。しかし、そもそもの原因は家族の不和であり、何かが起きたのは偶然ではない。家族の問題に関して、語り手の判断はシビアである。

 以上の認識をもとに、カエルの雨を見てみよう。そうすると意外なほどに、「カエルのせいで運命が変わった」という登場人物がいないことに気づく。余命いくばくもなかったアールは息子フランクの前で息を引き取る。ジミーは自殺を果たせず、銃が暴発して事故死する。リンダを運んでいた救急車は横転するが、彼女は一命を取りとめる。ドニーは盗んだ金を職場の金庫に返しに行こうとする途中で落ちるが、結局ジムといっしょに返しに行く。これらの出来事は、過去に原因があり、起こるべくして起きている(「われわれが過去を捨てても、過去はわれわれを捨てはしない」)。カエルの雨というstrange thingsは起こったが、それぞれの結果は偶然ではない。語り手が冒頭に提示した世界観によって、映画は最終的な統一性を得ている。

  共通経験という水平軸と時間継起という垂直軸。二つを軸として、『マグノリア』の断片群を統一するのは「家族の困難さ/愛の困難さ」というテーマだ。ラストシーンでクローディアが見せる突然の笑顔は、作品がジムとクローディアの間に生まれた愛を祝福している表れと考えられる。このことと、ジムとクローディアが作品内で唯一「平等に向かい合って座る」ことのできる男女(彼らはテーブルのちょうど真ん中で唇を合わせさえする!)であることは大きな関係がある。

 アールとジミーという作品内の「父」は、どちらも他人に向き合って座ることをしない。アールは病人であり常に寝ていて、リンダが添い寝しても顔を向けたり会話したりしない。ジミーは司会者という仕事が象徴するように常に「立っている」人物だ。娘のクローディアの部屋を訪れた時「座っていいか?」と尋ねても拒否され、彼は座らせてもらえない。逆の立場になった時、番組の司会者としてスタンリーを解答者席に座らせることもまたできない。彼が座るのは向き合う場所に相手のいない控室と自宅の二回だけだが、後者では妻の「クローディアにさわったの?」という質問に向き合えないのを示すかのようにソファにもたれ、アールとそっくりの寝た姿勢になっている。後はただ、収録中発作を起こした時と銃の暴発で死ぬ時の二度、くずおれるように倒れるのを許されるだけだ。

 フランクはどうか?「Seduce and Destroy」などという男性至上主義・女性蔑視のマニュアルを書く教祖だから望みは最初から低いが、インタビューの席で黒人女性グエノヴィアと一応向かい合って座りはする。しかし母に関するデリケートな質問が彼の逆鱗に触れるや、後半はただ彼女をjudgeし、沈黙して時間稼ぎしていた。インタビュー直後のスピーチで「Men are shit.」と発言して信者を動揺させたり死の床のアールに本音をぶちまけたりして一日で少なからぬ変化を遂げたフランクが、一命を取りとめ病院のベッドに横たわるリンダとどのような会話をするのか、それは観客の想像に任されている。

 ジムは、最初通報を受けて急行したマーシーの家で彼女を座らせることができず、結局手錠で縛り付け銃で脅すことになる。この点、フランクの「Tame the cunt.」を地で行く、女性をねじ伏せて征服する行為だ。ところが、同じように通報を受けて行ったクローディアの家では、ジムは彼女と向き合って座り、コーヒーを楽しみ、デートに誘ってもう一度向き合って座りさえする。死体の第一発見者であるにも関わらず捜査に関する会話にも入れないジム、男性性の象徴である警棒も拳銃も落としてしまうジム。彼が、向かい合って座ることのできる女性クローディアを見つけsaveする未来に、作品は少なからぬ希望を託しているようだ。

  ちなみに、信じようと信じまいと、『マグノリア』のエンディングでエイミー・マンが「Save me」を歌い終わるのは、開始から182分の時点である。こうした奇妙なことは起こるのだ。

M/Gと大江のフットボールの物語-大江健三郎全小説全読書会②

大好評をいただきました第1回読書会から3か月、『大江健三郎全小説』第7巻配本(7/10)を記念して、第2回「大江健三郎全小説全読書会」を開催します(第1回読書会での議論をレポート化したものがブログにあるのでよければ過去の記事もご覧ください)。今後も各回配本に合わせて実施していく予定。今回は早くも名実ともに大江を代表する作品を読みます。大江ファン集まれ!
 
日時:  2017年9月30日(土) 11:00~ *前回と異なり、午前集合なのでお気をつけて。
場所:  名曲・珈琲「らんぶる」(東京メトロ新宿三丁目駅下車すぐ)  地下席
課題書:  『大江健三郎全小説第7巻』より『万延元年のフットボール』(1967年発表)
参加費:  飲食代のみ
 
なんらかの事情で『大江健三郎全小説第7巻』が入手できない場合、講談社文芸文庫版『万延元年のフットボール』等を読んできていただいてもかまいません。筒井康隆「万延元年のラグビー」とだけ間違えないように。
参加希望で初参加の方は、@bachelor_keatonまでご連絡下さい。では当日多くの方とフットボールできますことを期待しています。

大江健三郎全小説全読書会より~『叫び声』

 1961年に出版された『何でも見てやろう』には、途上国の希望とその裏側の絶望を見る小田実の透徹した視線がそこかしこにあふれている。たとえば、ナセルの演説に駆けつけた聴衆たちの熱狂を記す次のような箇所。

 

「ナセル!」隣りの男が私の肩を叩き、またそう言った。私も同じコトバ―同じ魔法の一語で応じた。それで、私と彼との気持ちは通じ合ったとみてよろしい。いや、野外スタディアムを埋めつくした聴衆のすべてが、ただその一語のために、ここへ集まり、かくも熱狂的に拍手をし、歓呼の声をあげているのだろう。私はうらやましいと思った。「ナセル!」を批判することは、アラブ連合をけなし去ることは、むしろ容易であろう。しかし―たとえ「ナセル!」の語が民衆をたぶらかす魔法であろうと、無鉄砲な言い方をあえてすれば、それはとにかく「未来」というものに結びついている。それも大きく結びついている。講談社文庫版p.339)

 

 ここで唐突に現れる「未来」の語は、読者を何がしかの感傷に陥れる力を持っている。『何でも見てやろう』自体、「もっとも高度に発達した資本主義国、われわれの存亡がじかにそこに結びついている世界の二大強国の一つ」(p.9)であるアメリカに、「ひとつ、アメリカへ行ってやろう、と私は思った。」という有名な冒頭が示す計算された身軽さで乗り込むという、冷戦に規定された想像力の所産である。しかし冷戦期でもなお、いやだからこそいっそう、アラブ諸国やアジア・アフリカなど「第三世界」に、「未来」が想像的に託された時代もあったのだ。

 同種の想像力を、その希望と終焉を、われわれは大江健三郎の初期作品に読み取ることができる。(小田実にならって)無鉄砲な言い方をあえてすれば、大江健三郎の初期作品は日本文学の領土には属していない。それらは『失われた足跡』(1953)がそうであり、『百年の孤独』(1967)もまたそうであるように、「第三世界の文学」として書かれているのだ。このような視点から、『叫び声』(1963)を読んでいくことにしよう。

 

『叫び声』は、「恐怖の時代」における「叫び声」が、聞く者みなにそれが自分自身の声でなかったかと耳を疑わせる、という箴言で幕を開ける。しかし語り手「僕」によれば、目に見える恐怖のない現代においても、一部の者にとって事情は同じなのだ。

 

戦争も、洪水も、ペストも大地震も大火も、人間をみまっていない時、そのような安堵の時にも、確たる理由なく恐怖を感じながら生きる人間が、この地上のところどころにいる。かれらは沈黙して孤立しているが、やはり恐怖の時代においてとおなじく、ひとつの恐怖の叫び声をきくとその叫びを自分の声だったかと疑う。そしてそのような叫び声は恐怖に敏感なものの耳にはほとんどつねに聞こえつづけているのである。かなり以前のことだが、僕もまたその叫び声を聞く者のひとりだった。(『叫び声』講談社文芸文庫p.7、強調筆者)

 

 この冒頭部分からいくつかのことが読み取れる。第一に、語り手から見た世界は、表面上「恐怖の時代」ではないが、敏感な者には水面下の恐怖がたえず感じられるような、二層構造をなしているということ。これは「ゆたかな時代」のアメリカにおける物質的繁栄と核の恐怖、高度成長期の日本における経済成長と米軍の軍事力、など冷戦期を特徴づける二層構造と対応している。第二に、少数の「恐怖に敏感なもの」には叫び声が聞こえ、「僕」もある時期まではその少数者の集団に属していたこと。これは一種のエリーティズムであり、「僕」は語り手の立場を生かして自分たちを特権化している。

 以後、『叫び声』の前半は「僕」による若者四人の共同生活、「僕」が呼ぶ《黄金の青春の時》の回想という形をとって進められていく。叙述のそこかしこに、「『僕』を含めた敏感な少数」対「愚鈍なその他」という線引きが行われているのを読み取っておこう。まず「僕をふくめて三人の若い同居人」(p.8)と「若いアメリカ人」(同)の「共同生活」という表現。後に「その祖父がブルガリアから移住したスラヴ系のアメリカ人」「すべてソヴィエトに送りこまれる筈のアメリカ情報局要員にふさわしい風貌、骨格」(p.21)と東西冷戦を印象づけて描写され直すダリウス・セルベゾフは、当初「若いアメリカ人」と形容されて具体性を持たされていない。

 さらに、後にアメリカ黒人と日系移民の混血とわかる「虎」、朝鮮人父親と朝鮮名を持つ呉鷹男、人種的マイノリティーである二人からも当初固有性は剝奪されている。「とくにきわだった個性をもった人間だというのではなかった」(p.14)一般的な「日本人」である「僕」とふくめて「虎」と鷹男を「三人」と名ざし、セルベゾフと合わせて「僕のみならず、二人の日本人と若いアメリカ人」(p.9、強調筆者)と規定していることには、「僕」の演出の意図がうかがえる。オートバイに乗った若者の死をめぐる「僕ら」と社会の対立、すなわち血を流す若者に感情移入して「戦争からかえっていく四人組」(p.11)のように感じ若者が息を引き取ると「インディアンのように」跳び出していく「僕ら三人」と、血で車のシートが汚れるのを気にして「不法侵入で訴えてやる」(p.11)と叫ぶことしかしないベンツの男との対立も、「僕ら」の一体感を強調している。

 そして四人が遠洋航海する予定のヨットは「レ・ザミ(友人たち)号」と命名され、彼らはアフリカに出航することに決める(「象牙海岸黄金海岸ケープタウン!」p.65)。なぜ彼らはアフリカに行くのか?それは、アフリカが「虎」の想像上の故郷であると同時に、呉鷹男がたどりつきたかった「この世界とはちがう世界」(p.28)であり、「僕」が冷戦や梅毒を恐怖しなくてよい場所として造形されているからだ。アフリカは、次の挿話でのエジプトのように、そして小説前半における第三世界がそうであるように、「国外脱出の気分」を持つ者の想像力を受け止めてくれる「ノアの方舟」、「未来」が語られる場所だったのだ。

 

その冬、エジプトでは戦争がおこっていた。[…]ナセルは世界じゅうに義勇軍を要請した。僕の大学にも、エジプト行きの兵士が募集されているという噂がつたわり大騒ぎになった。僕がその噂を、共同の家に持ち帰ると、鷹男も虎もノアの方舟の噂をきいた獣たちみたいに昂奮した。翌日、[…]危険な嘘にすぎないことがわかった。そこで僕らは、僕の大学に流行の熱病のように、国外脱出の気分がみなぎっていることをあらためて知った。(p.126)

 

 しかし彼らのアフリカ行きは、セルベゾフが少年誘拐事件を起こして日本を去り、資金回収のため始めた中古ラジオ回収業も詐欺に遭い、夢の象徴である「レ・ザミ号」が「雨ざらしで汚れてしまってばかな物干台みたいなものに堕落」(p.122)することでどんどん現実味を喪失していく。現実への最後の抵抗が「虎」の企てた「銀行強盗」だった。アメリカ兵の外套とオモチャの自動小銃を身につけた「虎」は、アメリカの憲兵と日本の警官に発砲され横須賀で命を落とす。《黄金の青春の時》は終わったのだ、ただ「虎は、魔法の力で横須賀をアフリカの土地に変えたみたいだったんだよ」(p.133)という鷹男のロマンティックな美化を残して。鷹男の想像がどうあろうと、横須賀はアフリカではなく、冷戦戦略上必要な米軍基地も消えはしない。同時に、アフリカに想像的に「未来」を託すことのできた時代も、冷戦という現実に敗れ、終わったのだ。

 

 ここまで、《黄金の青春の時》の崩壊を政治という大状況と関連させて見てきた。次に、同じ主題を性という「個人的な問題」の角度から見てみよう。四人の共同生活は、ホモソーシャルな色彩に満ちている。「僕らの天井の高い洋室は鷹男と虎と僕自身の汗でいっぱいになった。それはやがて友人たち(レ・ザミ)号の匂いとなるだろう…」(p.32)。「友人たち」のホモソーシャルな場は、女性嫌悪によって成り立つ空間でもある。「僕」は娼婦との最初の性交がオブセッションとなり、自分の健康な体に梅毒の兆候を探し回っている。恋人とも性についての議論ばかりして性交渉はできず、「もともと自分にこの恋人をふくめてすべての女との性交をさけたいという欲求潜在的にあり[…]そこで恋人と議論だけに固執しているのではないか」(p.49)と自分で分析する通りだ。鷹男は毎日浴室で自慰にふける生活から、「虎」の恋人を譲り受けて同棲に切り替えようとするが、結局「部屋じゅうに屁と尿と屎とをしてまわったのさ」(p.56)と幼児期への退行を見せつける形で別れ、結局ホモソーシャルな共同生活と浴室に戻ってしまう。「虎」ですら、鷹男の恋人を引っかいた猫のロビンソンを「ロビンソン、おまえはひどく引っかいたなあ」と「裸の胸にだきしめて」(p.55)顕彰するありさまだ。有名な「女子大生の平均放屁回数は一日六個なんだよ」(p.61)という鷹男の台詞も、単なるユーモアでなく、「僕」に恋人と別れることを薦める文脈で発されていることにも注意されたい。

 ホモソーシャルな関係性は一般に、ホモセクシュアルを抑圧する。そしてホモセクシュアリティが表面に露出して止めようがなくなった時、ホモソーシャルな共同体は崩壊する。この図式に忠実に、「僕ら」が共同生活を営む《黄金の青春の時》は、セルベゾフのホモセクシュアリティによって崩壊してしまう。セルベゾフが少年を誘拐した事件について、「僕」・「虎」・鷹男はほとんどふれようとせず、セルベゾフの告白した朝鮮戦争で「朝鮮の若者」を銃殺してしまった逸話を事の遠因として(内心では信じないながらも)受け入れようとする。しかし週刊誌記者が後に暴露したように、「僕」の《黄金の青春の時》とは「男色家のアメリカ人が東京につくったホモ・セクシュアルのハレム!」(p.95)の別名だった可能性が強く示唆されている。

 そして「僕」は真相を知った恋人になかば押し切られて性交を行うが、その間の台詞がすべてカタカナで記述され異化されていることからもわかるように(p.103)、「僕」が他者に出会いコミュニケートする契機とはなっていない。同様のことは、自らの怪物性を証明するために、夢とも現実ともつかない認識で女子高生を殺害してしまう呉鷹男にも言え、犯罪を行う時の「こういうことは現実にはおこりえない。」(p.157)という彼の思索はゴシック体で記され不自然さを強調されている。死んだため理想化された「虎」はひとまず除くとしても、「僕」も鷹男も、彼らの「浴室」(それは自慰を行う場所である)から出て他者に出会うことができない人間なのだ。彼らの見た「アフリカ」が現実のアフリカではないように、彼らと暮らしていたホモソーシャルな「若いアメリカ人」も、ホモセクシュアルとしてのセルベゾフ個人ではなかった。《黄金の青春の時》は政治的にも性的にも、現実の固有性が露出することで喪失されたのだ。

 

 終章である五章は、いわば「終わりの終わり」を「僕」が体験する箇所になっている。事件から五年の歳月が過ぎ、「僕」も収監されている鷹男ももはや若くはなく、「友人たち(レ・ザミ)号のうしなわれた幻影が、僕らの共通の血」(p.175)だと認識して過去に生きている。そこにセルベゾフから、宛先に「虎」と呉鷹男と「僕」の名を連名で並べた、遅まきの手紙が届く。「友人たち(レ・ザミ号)の黄金の輝きにてらしだされたわれわれの青春の亡霊」(p.177)。手紙には、セルベゾフが日本を発った後「インドのニューデリイで英語教師をしたりベイルートで案内人の仕事をひきうけたりして」(p.178)暮らしていたが、結局今はパリで英語教師をしていることが書かれていた。これは、インドやベイルートなど第三世界に希望を仮託した想像力が、現実の資本主義に敗北し、セルベゾフ自体が西側の先進国に住み西側の主要言語たる英語を広める役割を引き受け、資本主義の尖兵(パリのアメリカ人!)になってしまったことを象徴している。「僕」はギリシアからイタリアへ、少し前に小田実が旅したのとは逆の経路で旅することにする。「僕」はギリシア人娼婦アルクメーヌと性交渉し、初めて他者と交流を持つことができた(この場面は、単語にイタリア語読みのルビ打ちではあるが、きわめて印象的に描かれている)。が、それも「in nessun luogo(どこにもない国)」という彼女が発した言葉の強さにかき消えてしまい、「僕」はまた思索に戻っていく。《黄金の青春の時》の喪失それ自体をシミュレートしながら、「僕」はパリでセルベゾフに会う。セルベゾフは肥り、「すでにまったく中年のアメリカ人の印象」(p.206)であり、「虎ちゃんも鷹男ちゃんも、ほんとうに可哀相にねえ」(同)のように、かつてとは言葉遣いまでホモセクシュアルふうに変わっている(とはいえ、これ以後の台詞はすべてフランス語で発されているから、最も変容したのは「僕」のセルベゾフ像だとも言える)。「僕」は、喪失と形容することもできない荒涼感の中、アルジェリアの反フランス闘争が単なるテロ行為と化し、セルベゾフがホモセクシュアリティをさらけ出して自分に求愛してくるのを聞いている…。

 

 1961年、小田実は次のように書いた。

 

「西洋」のなすがままに、しぼりつくされ、半殺しのめにあっていた「われわれ」被支配国、植民地国、後進国、そして貧困。そこで、おそらく、アジアは一つとなる。いや、私は「アジア」というコトバを思い浮かべるとき、必ずそのコトバに中近東はおろかアフリカさえもふくめてそうしているのだが、そこの一点において、アジアとアフリカはまさに一つになる。[…]

そして、腐敗と希望。

それが、その相反した二つのものが、私のエジプト滞在の一つの結論であった。(p.323)

 

 われわれは、この後の歴史を知っている。ベトナムが冷戦構造に組み込まれて長い戦争が起きたことも、小田自身がその戦争に関わって反対活動を行ったことも知っている。最後には資本主義が共産主義に「勝利」したことだって知っている。そしてグローバリズムがやってきて、どこかの思想家が「アジアは一つ」と理想論をぶつのとまったく別の意味で、アメリカもアジアもアフリカも一つにしてしまった。しかし。

 この時代には、冷戦の現実から外に向かうための「第三世界」という思考枠組みがあった。そして、その「腐敗」だけでなく「希望」を、「未来」を語る言説があった。その事実を、われわれは喜ぶべきだと思う。もちろん、「希望」は死に、「未来」は現実に塗り替えられる。しかしその時代の思考枠組みが、想像力が、何より「希望」の強さが生んだ「第三世界の文学」には、今でも魅力と可能性に満ちている。

 こうして、最後に「僕」が荒涼の中で上げる叫び声は、現代の読者の物でもあり続ける。

叫べ、叫び続けよ ー大江健三郎全小説全読書会①

7月10日に『大江健三郎全小説』が第3巻から配本開始されるという歴史的事件を記念して、「大江健三郎全小説全読書会」を立ち上げます。今後も各回配本に合わせて実施していく予定。大江ファン集まれ!

日時: 2017年7月16日(日) 14:00~
場所: 名曲・珈琲「らんぶる」(東京メトロ新宿三丁目駅下車すぐ) 地下席
課題書: 『大江健三郎全小説第3巻』より『叫び声』(1963年発表)
参加費: 飲食代のみ

なんらかの事情で『大江健三郎全小説第3巻』が入手できない場合、講談社文芸文庫版『叫び声』等を読んできていただいてもかまいません。
参加希望の方は、@bachelor_keatonまでご連絡下さい。では当日多くの方と叫び声を共有できますことを期待しています。

新作小説時評 (2)

 

 山田詠美の新作「ベッドタイムアイズ」は、肌の柔らかさと金属の硬さが共存し、時に不協和をきたすありようを描いている。語り手キムは黒人兵が「黒い指の間にはちみつがしたたり落ちるかのように金色」(p.11)のグラスを持っている所を見て欲情を抱き、黒人兵のほうは「金色のチェーン」(p.12)を裸の胸につけ、さらに自らの金属性を強調するようにスプーンを持ち歩いて自分の名としている。キムがスプーンと恋に落ちるのは、何よりも硬さに性的に感応したためだ。

 

 偶然ポケットに触れた時、スプーンがビリヤード台の前で、しきりに愛撫していた例の物にぶつかる。それが金属であること、また日常、最も親しんでいる物であるのに気づいた時、私は体の芯にあれが来て、すべての感覚が麻痺してしまった。(p.14) 

 スプーンがポケットにスプーンを持ち歩いているのがなぜそんなに魅力的なのか、読者は疑問に思うべきではない。キムからスプーンへの最大の愛情表現が、ピアス(「チン、という澄んだ音」(p.69)で硬質性が表現されている)をジンで流して柔らかい胃の中に送り込むことで行われ、かわりにスプーンからキムへの愛情表現は硬い歯で左肩の肌に噛み跡を残すことで行われる、これはそんな作品なのである。愛や性とは硬さと柔らかさの配分の別名だ、と作者は考えているように思われる。スプーンの肉体は、日本人男性やマリア姉さんのストリップ小屋にひしめく「軟体動物」(p.18)の柔らかさと対比され、硬さや存在感を強調して描かれている。

 

 彼のディックは赤味のある白人のいやらしいコックとは似ても似つかず、日本人の頼りないプッシィの中に入らなければ自己主張できない幼く可哀相なものとも違っていた。海面をユラユラする海草のような日本人の陰毛は、いつも私の体にからまりそうな気がし恐怖感すら覚えてしまう。

 スプーンのヘアは肌の色と保護色になっているからか、ディック自身が存在感を持って私の目に映る。私は好物のスウィートなチョコレートバーと錯覚し、口の中が濡れて来るのを抑えることができない。流れ出る唾液は、すでに沸騰している。(p.13-14)

 

 しかし上の引用中にある「自己主張できない幼く可哀相なもの」とは、日本人男性一般だけでなくキム自身の自画像でもあり、「海草のような日本人の陰毛」に対する恐怖感は自己嫌悪の裏返しである。キムの使う「卒業証書をちょうだい」や「嵐の月曜日に登校拒否をしないで、浮き立った気分で学校に通えるキッズにすらなれそう」など学校に関係する語彙が象徴するように、キムは導いてくれる教師を求めて生きている「生徒」なのだ。

 

 私はマリア姉さんを見詰める。百年間、貯蔵庫に眠らせて置いた金色の酒を注いだようなトロリとした目をしている。私はいつもこの目に酔わされ自分の醜さを思い、自分の関った男を彼女の手に委ね、確認を頼み、自分を劣等生のように感じ安息を得た。彼女はかわいそうな捨て子の私の、絶対だったのだ。

 そしてスプーンと出会って以来、彼が私の絶対だった。私はいつも、あまりにも無知で海草のようにふらふら頼りなくて指導者を必要としていた。(p.61) 

 

 「かわいそう」で「頼りない」キムは、スプーンの硬さに愛されることによってのみ、その身を金属製のコルネットのように存在感あるものに仕立てられるのだ。「スプーン、私の唇をコルネットを吹くように吹かないで、プリーズ。」(p.51) ここでキムの意識に喚起されているのは2章前で言及されていた「ボールドウィンの小説の中のブラザー・ルーファス」だ(なぜか明言されていないがこの小説は『もう一つの国』であり、ルーファスは開始早々に自殺してしまう)。『もう一つの国』のルーファスが愛を語るためサキソフォンという楽器を必要とするのに対し、スプーンは硬さを持つ自らの肉体で語ることができる。

 

 小説の進行とともに変化する関係性の配分を見てみよう。キムの恋愛は、最初はスプーンに対し優越感を抱くことで始まる。「腐臭に近い、けれども決して不快ではなく、いや不快でないのではなく、汚い物に私が犯されることによって私自身が澄んだ物と気づかされるような、そんな匂い。彼の匂いは私に優越感を抱かせる。」(p.12-13) しかし二者の関係はすぐに変化し、スプーンはキムに「I’m gonna be your teacher.」(p.28)と上位の教師として振る舞い始め、キムも「私の体にはスプーンという刻印が押されているのは確かだった。」(p.51)と彼の自分に対する優越性を認める。そんな折、スプーンはマリア姉さんと肉体関係を持ち、キムは二人をマリア姉さんのマンションで発見することになる。

 

 海草のような長い髪の毛が彼の足の間に広がり、その間から金色に塗られた尖った爪が覗いていた。その髪はメドゥーサのように今にも一本一本が蛇になって蠢きそうにユラユラと揺れていた。

 マリア姉さんは静かに顔を上げた(p.58)

 

 「海草」のキムを導いていたマリア姉さんの、あまりにも急な「海草」への変貌!ほどなくキムは「愛しているのよ、キム」「ずっと前から愛していたのよ。あんたは私の執着した、ただ一つのものだったのよ」という衝撃的な告白を聞くことになる。ギリシャ神話のメドゥーサは、相手の目を見据える視線で生身の肉体を硬い石に変えるが、ペルセウスの持つ鏡の盾で自分の目を見ることによって自らをも石化させてしまう。本作では目(eyes)で相手を「見る」人物は、必ず相手に視線を返される。そして返された視線によって、メドゥーサが自分の醜い姿を知るのと同じように、自己認識の劇が始まる。

 

私はマリア姉さんを見詰める。百年間、貯蔵庫に眠らせて置いた金色の酒を注いだようなトロリとした目をしている。私はいつもこの目に酔わされ自分の醜さを思い、自分の関った男を彼女の手に委ね、確認を頼み、自分を劣等生のように感じ安息を得た。彼女はかわいそうな捨て子の私の、絶対だったのだ。

 そしてスプーンと出会って以来、彼が私の絶対だった。私はいつも、あまりにも無知で海草のようにふらふら頼りなくて指導者を必要としていた。

 彼女は私を見詰め返した。私は不思議なくらいに冷静だった。[中略]今、私は男を取られた女になっている。私はそう感じている。」(p.61-62)

 

 後の箇所、スプーンとキムとの視線の往復。

 

 スプーンは肘をついて私を監禁し、ゆっくりと目を開け獲物を見降ろした。[中略]「最後まで見届けろ。オレがお前の上に在るって事を」

泣きださずにはいられない。私は悟る。痛みと快感は酷似していると。スプーンを愛する事は私の心に傷をつける。[中略]

 「見るんだ」

 私は、見た。逃れられない。彼の瞳は私のすべてをものにする。(p.72-73)

 

 キムがマリア姉さんを愛していた時、マリア姉さんも実はキムを愛していた。キムはスプーンを「あんたは私の気持のよいシーツだ」と譬える一方、スプーンもキムを「ライナスの毛布」のように、そして「ふわふわして柔らかい」小さな頃飼っていた猫のように思っていた。いずれの場合も、相手が自分と対称的な認識を持っていたことは、キムの認識の埒外に当初あり、キムはそれを遅れをともなって認識する。生徒から見た教師像、教師から見た生徒像は、交点で微妙に交わって交錯している。生徒としてのキムは、彼我の認識に横たわる溝の存在を二人の教師から「学習」するのだ。「私という、ちっぽけな黒板」にスプーンが書いた数式「2 sweet + 2 be = 4 gotten」(p.92)(忘れ去られるには甘すぎる)を、別れの際に痛みを持って学習するのと同様に。キムがスプーンを忘れ去りなどできなかったことは数式より雄弁にこの小説が書かれていることが示しているし、手記の冒頭は認識の隙間の主題から始められている。

 

 スプーンは私をかわいがるのがとてもうまい。ただし、それは私の体を、であって、心では決して、ない。私もスプーンに抱かれる事は出来るのに抱いてあげることが出来ない。何度も試みたにもかかわらず。他の人は、どのようにして、この隙間を埋めているのか私は知りたかった。(p.9)

 

 性描写に着目しすぎるセンセーショナルな読み方では、例えば1985年ならともかく、現在ではこの小説の存在意義を示すことが難しい。「横須賀の基地」という固有名や米軍兵士との恋愛という設定のみを取り上げ、キムとスプーンの恋愛すべてを日米関係の比喩と見なそうとする時代錯誤な欲望にも注意が必要だ。日本人女性と黒人米兵の恋愛という設定、それはボールドウィンが『もう一つの国』を人種・国籍・セクシャリティーの異なる男女五人を中心に書いたのに似た、主題を浮き上がらせるための作者の苦心と見るべきだろう。虚心に読めば、「ベッドタイムアイズ」は柔らかさと硬さの関係性、自己と他者の認識の齟齬をめぐる論理的な小説である。キムとスプーンは隙間を抱えながらも二人で”もう一つの国”を築き上げる。しかしその領土は、スプーンのIDカードを「ジョゼフ・ジョンソン」の本名の下に管理する現実の国家機関の介入によって、あっけなく消滅してしまう。スプーンが去った後、キムに現実の認識が遅れをともなって訪れる。鋭敏すぎるほどの知覚とともに。

 

 そして、何日かたち、人間の感情が戻って来た時、私は冷蔵庫の中の肉が嫌な匂いをさせて腐りかかっているのに気付いた。それを捨てようとトラッシュ缶の蓋を開けた途端、気分が悪くなって吐いた。[中略]私はやっと思い出した。私はスプーンを失ったのだ。私はもうじき死ぬ病人のような呻き声を出して泣いた。スプーン、どこに行ったの?私は気が狂ったように部屋中をひっくり返してスプーンの残して行った形跡を捜し始めた。(p.96)

 

 シーツの染み、パナマ帽に残った髪の毛、食べかけのチョコレートチップクッキー…。今は不在となったスプーンの残滓を数え上げ喪に服する作業として、小説は書き始められた。今読者が読むこの記録は、「ジョゼフ・ジョンソン」ではない「スプーン」が真に存在した証、「もう一つの国」でのIDとなっているのだ。

 

参考文献

 山田詠美『ベッドタイムアイズ・指の戯れ・ジェシーの背骨』(新潮文庫

 大塚英志サブカルチャー文学論』(朝日新聞社、2004年)

 清水良典『デビュー小説論 新時代を創った作家たち』(講談社、2016年)