大江健三郎全小説全読書会より~『叫び声』

 1961年に出版された『何でも見てやろう』には、途上国の希望とその裏側の絶望を見る小田実の透徹した視線がそこかしこにあふれている。たとえば、次のような箇所。

 

「ナセル!」を批判することは、アラブ連合をけなし去ることは、むしろ容易であろう。しかし―たとえ「ナセル!」の語が民衆をたぶらかす魔法であろうと、無鉄砲な言い方をあえてすれば、それはとにかく「未来」というものに結びついている。それも大きく結びついている。講談社文庫版p.339)

 

 ここで唐突に現れる「未来」の語は、読者を何がしかの感傷に陥れる力を持っている。『何でも見てやろう』自体、「もっとも高度に発達した資本主義国、われわれの存亡がじかにそこに結びついている世界の二大強国の一つ」(p.9)であるアメリカに、「ひとつ、アメリカへ行ってやろう、と私は思った。」という有名な冒頭が示す計算された身軽さで乗り込むという、冷戦に規定された想像力の所産ではある。しかし冷戦期でもなお、いやだからこそいっそう、アラブ諸国やアジア・アフリカなど「第三世界」に「未来」が想像的に託された時代もあったのだ。

 同種の想像力を、その希望と終焉を、われわれは大江健三郎の初期作品に読み取ることができる。小田実にならって無鉄砲な言い方をあえてすれば、大江健三郎の初期作品は日本文学の領土には属していない。それらは『失われた足跡』(1953)や『百年の孤独』(1967)と同じく「第三世界の文学」として書かれているのだ。このような視点から、『叫び声』(1963)を読んでいくことにしよう。

 

『叫び声』は「恐怖の時代」における「叫び声」が、聞く者みなにそれが自分自身の声でなかったかと耳を疑わせるという箴言で幕を開ける。しかし語り手「僕」によれば、恐怖の時代でない現代においても、一部の者にとっては事情は同じなのだ。

 

戦争も、洪水も、ペストも大地震も大火も、人間をみまっていない時、そのような安堵の時にも、確たる理由なく恐怖を感じながら生きる人間が、この地上のところどころにいる。かれらは沈黙して孤立しているが、やはり恐怖の時代においてとおなじく、ひとつの恐怖の叫び声をきくとその叫びを自分の声だったかと疑う。そしてそのような叫び声は恐怖に敏感なものの耳にはほとんどつねに聞こえつづけているのである。かなり以前のことだが、僕もまたその叫び声を聞く者のひとりだった。(『叫び声』講談社文芸文庫p.7、強調筆者)

 

 この冒頭部分からいくつかのことが読み取れる。第一に、語り手から見た世界は、表面上「恐怖の時代」ではないが、敏感な者には水面下の恐怖がたえず感じられるような、二層構造をなしているということ。これは「ゆたかな時代」のアメリカにおける物質的繁栄と核の恐怖、高度成長期の日本における経済成長と在日米軍の軍事力、など冷戦期を特徴づける二層構造と対応している。第二に、少数の「恐怖に敏感なもの」には叫び声が聞こえ、「僕」もある時期までは確実にその少数者の集団に属していたこと。

 以後、『叫び声』の前半は「僕」による若者四人の共同生活、《黄金の青春の時》の回想という形をとって進められていく。叙述のそこかしこに、「『僕』を含めた敏感な少数」対「愚鈍なその他」という線引きが行われているのを読み取っておこう。まず「僕をふくめて三人の若い同居人」(p.8)と「若いアメリカ人」(同)の「共同生活」という表現。後に「その祖父がブルガリアから移住したスラヴ系のアメリカ人」「すべてソヴィエトに送りこまれる筈のアメリカ情報局要員にふさわしい風貌、骨格」(p.21)と東西冷戦を印象づけて描写され直すダリウス・セルベゾフは、当初「若いアメリカ人」と形容されて具体性を持たされていない。さらに、後にアメリカ黒人と日系移民の混血とわかる「虎」、朝鮮人父親と朝鮮名を持つ「呉鷹男」を、「とくにきわだった個性をもった人間だというのではなかった」(p.14)一般的な「日本人」である「僕」とふくめて「三人」と名ざし、セルベゾフと合わせて「僕のみならず、二人の日本人と若いアメリカ人」(p.9、強調筆者)と規定していることには、「僕」の演出の意図がうかがえる。オートバイに乗った若者の死をめぐる、若者に感情移入して「戦争からかえっていく四人組」(p.11)のように感じ若者が息を引き取ると「インディアンのように」跳び出していく「僕ら三人」と、血でシートが汚れるのを気にして「不法侵入で訴えてやる」(p.11)ことしかしないベンツの男との対立も、「僕ら」の一体感を強調している。

 そして四人が遠洋航海する予定のヨットは「レ・ザミ(友人たち)号」と命名され、彼らはアフリカ(「象牙海岸黄金海岸ケープタウン!」p.65)に出航する予定を立てるのだ。なぜ彼らはアフリカに行くのか?それは、アフリカが「虎」の想像上の故郷であると同時に、呉鷹男がたどりつきたかった「この世界とはちがう世界」(p.28)であり、「僕」が冷戦や梅毒を恐怖しなくてよい場所として造形されているからだ。アフリカは、次の挿話でのエジプトや他の第三世界のように、「国外脱出の気分」を持つ者の想像力を受け止めてくれる「ノアの方舟」、「未来」が語られる場所だったのだ。

 

その冬、エジプトでは戦争がおこっていた。[…]ナセルは世界じゅうに義勇軍を要請した。僕の大学にも、エジプト行きの兵士が募集されているという噂がつたわり大騒ぎになった。僕がその噂を、共同の家に持ち帰ると、鷹男も虎もノアの方舟の噂をきいた獣たちみたいに昂奮した。翌日、[…]危険な嘘にすぎないことがわかった。そこで僕らは、僕の大学に流行の熱病のように、国外脱出の気分がみなぎっていることをあらためて知った。(p.126)

 

 しかし彼らのアフリカ行きは、セルベゾフが少年誘拐事件を起こして日本を去り、資金回収のため始めた中古ラジオ回収業も詐欺に遭い、「レ・ザミ号」が「雨ざらしで汚れてしまってばかな物干台みたいなものに堕落」(p.122)することでどんどん現実味を喪失していく。現実への最後の抵抗が「虎」の企てた「銀行強盗」だった。アメリカ兵の外套とオモチャの自動小銃を身につけた「虎」は、アメリカの憲兵と日本の警官に発砲され横須賀で命を落とす。《黄金の青春の時》は終わったのだ、「虎は、魔法の力で横須賀をアフリカの土地に変えたみたいだったんだよ」(p.133)という鷹男の美化を残して。鷹男の想像力がどうあろうと、横須賀はアフリカではなく、冷戦戦略上必要な基地も消えはしない。この時同時に、アフリカに想像的に「未来」を託すことのできた時代も、冷戦という現実に敗れ、終わったのである。

 

 ここまで、《黄金の青春の時》の崩壊を政治の大状況と関連させて見てきた。次に、同じ主題を性という「個人的な問題」の角度から見てみよう。四人の共同生活は、ホモソーシャルな色彩に満ちている。「僕らの天井の高い洋室は鷹男と虎と僕自身の汗でいっぱいになった。それはやがて友人たち(レ・ザミ)号の匂いとなるだろう…」(p.32)。「友人たち」のホモソーシャルな場は、女性嫌悪によって成り立つ空間でもある。「僕」は娼婦との最初の性交がオブセッションとなり、健康な体に梅毒の兆候を探し回っている。恋人とも性についての議論ばかりして性交渉はできず、「もともと自分にこの恋人をふくめてすべての女との性交をさけたいという欲求潜在的にあり[…]そこで恋人と議論だけに固執しているのではないか」(p.49)と自分で分析する通りだ。鷹男は毎日浴室で自慰にふける生活から、「虎」の恋人を譲り受けて同棲に切り替えようとするが、結局「部屋じゅうに屁と尿と屎とをしてまわったのさ」(p.56)と幼児期への退行を見せつける形で別れ、結局男同士の共同生活と浴室に戻ってしまう。「虎」は鷹男の恋人を引っかいた猫のロビンソンを「ロビンソン、おまえはひどく引っかいたなあ」と「裸の胸にだきしめて」(p.55)顕彰さえするのである。有名な「女子大生の平均放屁回数は一日六個なんだよ」(p.61)という鷹男の台詞も、単なるユーモアでなく、「僕」に恋人と別れることを薦める文脈で発されていることにも注意されたい。

 「僕ら」が共同生活を営む《黄金の青春の時》は、セルベゾフのホモセクシュアリティの露出によって崩壊してしまう。セルベゾフが少年を誘拐した事件について、「僕」・「虎」・鷹男はほとんどふれようとせず、セルベゾフの告白した朝鮮戦争で「朝鮮の若者」を銃殺してしまった逸話を事の遠因として(信じないながらも)受け入れようとする。しかし週刊誌記者が後に暴露したように、「僕」の《黄金の青春の時》は「男色家のアメリカ人が東京につくったホモ・セクシュアルのハレム!」(p.95)にすぎない可能性が強く示唆されている。そして「僕」は真相を知った恋人になかば押し切られて性交を行うが、その間の台詞がすべてカタカナで記述されていることからもわかるように(p.103)、「僕」が他者に出会う契機とはなっていない。それは、自らの怪物性を証明するために、夢とも現実ともつかない認識で女子高生を殺害してしまう呉鷹男にも言える。死んだため理想化された「虎」はどうだったかわからないが、「僕」も鷹男も、浴室から出て他者に出会うことができない人間なのだ。彼らの見た「アフリカ」が現実のアフリカではないように、彼らの暮らしていたホモソーシャルな「若いアメリカ人」セルベゾフも、ホモセクシュアルとしてのセルベゾフではなかった。《黄金の青春の時》は政治的にも性的にも、現実の露出によって喪失したのだ。

 

 終章である五章は、いわば「終わりの終わり」を「僕」が体験する箇所になっている。「僕」も収監されている鷹男も、もはや若くなく、「友人たち(レ・ザミ)号のうしなわれた幻影が、僕らの共通の血」(p.175)と認識して過去に生きている。そこにセルベゾフから、「虎」と呉鷹男と「僕」の名を連名で並べた、遅まきの手紙が届く。「友人たち(レ・ザミ号)の黄金の輝きにてらしだされたわれわれの青春の亡霊」(p.177)。手紙には、セルベゾフが日本を発った後「インドのニューデリイで英語教師をしたりベイルートで案内人の仕事をひきうけたりして」(p.178)暮らしていたが、結局今はパリで英語教師をしていることが書かれていた。これは、インドやベイルートという第三世界に仮託した想像力が、現実に敗北しセルベゾフ自体が資本主義の尖兵(パリのアメリカ人!)になってしまったことを象徴している。「僕」はギリシアとイタリアを、少し前に小田実が旅したのと逆の経路で回る。「僕」はギリシア人娼婦アルクメーヌと性交渉し、初めて他者と交流を持つことができたが、それも「in nessun luogo(どこにもない国)」という彼女が発した言葉の前にかき消えてしまう。《黄金の青春の時》の喪失それ自体をシミュレートしながら、「僕」はパリでセルベゾフに会う。セルベゾフは肥り、「すでにまったく中年のアメリカ人の印象」(p.206)であり、「虎ちゃんも鷹男ちゃんも、ほんとうに可哀相にねえ」(同)のように、かつてとは言葉遣いまで変わっている。「僕」は、喪失と形容することもできない荒涼感の中、アルジェリアの反フランス闘争が単なるテロ行為と化し、セルベゾフがホモセクシュアリティをさらけ出して自分に求愛してくるのを聞いている…。

 

1961年、小田実は次のように書いた。

 

「西洋」のなすがままに、しぼりつくされ、半殺しのめにあっていた「われわれ」被支配国、植民地国、後進国、そして貧困。そこで、おそらく、アジアは一つとなる。いや、私は「アジア」というコトバを思い浮かべるとき、必ずそのコトバに中近東はおろかアフリカさえもふくめてそうしているのだが、そこの一点において、アジアとアフリカはまさに一つになる。[…]

そして、腐敗と希望。(p.323)

 

 われわれは、この後の歴史を知っている。ベトナムが冷戦構造に組み込まれて長い戦争が起きたことも、小田自身がその戦争に関わって多くの反対活動を行ったことも知っている。最後には資本主義が共産主義勝利したことだって知っている。そしてグローバリズムがやってきて、「アジアは一つ」と理想論をぶつのとまったく別の意味で、アメリカもアジアもアフリカも一つにしてしまった。しかし。

 この時代に「第三世界」という思考枠組みがあったこと、その「腐敗」だけでなく「希望」を語る言説があったことを、われわれは喜ぶべきだと思う。もちろん、「希望」は死ぬ。しかしその時代の思考枠組みが、想像力が、何より「希望」の強さが生んだ「第三世界の文学」は、今でも魅力に満ちている。

 こうして、最後に「僕」が荒涼の中で上げる叫び声は、現代の読者の物でもあり続ける。

叫べ、叫び続けよ ー大江健三郎全小説全読書会①

7月10日に『大江健三郎全小説』が第3巻から配本開始されるという歴史的事件を記念して、「大江健三郎全小説全読書会」を立ち上げます。今後も各回配本に合わせて実施していく予定。大江ファン集まれ!

日時: 2017年7月16日(日) 14:00~
場所: 名曲・珈琲「らんぶる」(東京メトロ新宿三丁目駅下車すぐ) 地下席
課題書: 『大江健三郎全小説第3巻』より『叫び声』(1963年発表)
参加費: 飲食代のみ

なんらかの事情で『大江健三郎全小説第3巻』が入手できない場合、講談社文芸文庫版『叫び声』等を読んできていただいてもかまいません。
参加希望の方は、@bachelor_keatonまでご連絡下さい。では当日多くの方と叫び声を共有できますことを期待しています。

新作小説時評 (2)

 

 山田詠美の新作「ベッドタイムアイズ」は、肌の柔らかさと金属の硬さが共存し、時に不協和をきたすありようを描いている。語り手キムは黒人兵が「黒い指の間にはちみつがしたたり落ちるかのように金色」(p.11)のグラスを持っている所を見て欲情を抱き、黒人兵のほうは「金色のチェーン」(p.12)を裸の胸につけ、さらに自らの金属性を強調するようにスプーンを持ち歩いて自分の名としている。キムがスプーンと恋に落ちるのは、何よりも硬さに性的に感応したためだ。

 

 偶然ポケットに触れた時、スプーンがビリヤード台の前で、しきりに愛撫していた例の物にぶつかる。それが金属であること、また日常、最も親しんでいる物であるのに気づいた時、私は体の芯にあれが来て、すべての感覚が麻痺してしまった。(p.14) 

 スプーンがポケットにスプーンを持ち歩いているのがなぜそんなに魅力的なのか、読者は疑問に思うべきではない。キムからスプーンへの最大の愛情表現が、ピアス(「チン、という澄んだ音」(p.69)で硬質性が表現されている)をジンで流して柔らかい胃の中に送り込むことで行われ、かわりにスプーンからキムへの愛情表現は硬い歯で左肩の肌に噛み跡を残すことで行われる、これはそんな作品なのである。愛や性とは硬さと柔らかさの配分の別名だ、と作者は考えているように思われる。スプーンの肉体は、日本人男性やマリア姉さんのストリップ小屋にひしめく「軟体動物」(p.18)の柔らかさと対比され、硬さや存在感を強調して描かれている。

 

 彼のディックは赤味のある白人のいやらしいコックとは似ても似つかず、日本人の頼りないプッシィの中に入らなければ自己主張できない幼く可哀相なものとも違っていた。海面をユラユラする海草のような日本人の陰毛は、いつも私の体にからまりそうな気がし恐怖感すら覚えてしまう。

 スプーンのヘアは肌の色と保護色になっているからか、ディック自身が存在感を持って私の目に映る。私は好物のスウィートなチョコレートバーと錯覚し、口の中が濡れて来るのを抑えることができない。流れ出る唾液は、すでに沸騰している。(p.13-14)

 

 しかし上の引用中にある「自己主張できない幼く可哀相なもの」とは、日本人男性一般だけでなくキム自身の自画像でもあり、「海草のような日本人の陰毛」に対する恐怖感は自己嫌悪の裏返しである。キムの使う「卒業証書をちょうだい」や「嵐の月曜日に登校拒否をしないで、浮き立った気分で学校に通えるキッズにすらなれそう」など学校に関係する語彙が象徴するように、キムは導いてくれる教師を求めて生きている「生徒」なのだ。

 

 私はマリア姉さんを見詰める。百年間、貯蔵庫に眠らせて置いた金色の酒を注いだようなトロリとした目をしている。私はいつもこの目に酔わされ自分の醜さを思い、自分の関った男を彼女の手に委ね、確認を頼み、自分を劣等生のように感じ安息を得た。彼女はかわいそうな捨て子の私の、絶対だったのだ。

 そしてスプーンと出会って以来、彼が私の絶対だった。私はいつも、あまりにも無知で海草のようにふらふら頼りなくて指導者を必要としていた。(p.61) 

 

 「かわいそう」で「頼りない」キムは、スプーンの硬さに愛されることによってのみ、その身を金属製のコルネットのように存在感あるものに仕立てられるのだ。「スプーン、私の唇をコルネットを吹くように吹かないで、プリーズ。」(p.51) ここでキムの意識に喚起されているのは2章前で言及されていた「ボールドウィンの小説の中のブラザー・ルーファス」だ(なぜか明言されていないがこの小説は『もう一つの国』であり、ルーファスは開始早々に自殺してしまう)。『もう一つの国』のルーファスが愛を語るためサキソフォンという楽器を必要とするのに対し、スプーンは硬さを持つ自らの肉体で語ることができる。

 

 小説の進行とともに変化する関係性の配分を見てみよう。キムの恋愛は、最初はスプーンに対し優越感を抱くことで始まる。「腐臭に近い、けれども決して不快ではなく、いや不快でないのではなく、汚い物に私が犯されることによって私自身が澄んだ物と気づかされるような、そんな匂い。彼の匂いは私に優越感を抱かせる。」(p.12-13) しかし二者の関係はすぐに変化し、スプーンはキムに「I’m gonna be your teacher.」(p.28)と上位の教師として振る舞い始め、キムも「私の体にはスプーンという刻印が押されているのは確かだった。」(p.51)と彼の自分に対する優越性を認める。そんな折、スプーンはマリア姉さんと肉体関係を持ち、キムは二人をマリア姉さんのマンションで発見することになる。

 

 海草のような長い髪の毛が彼の足の間に広がり、その間から金色に塗られた尖った爪が覗いていた。その髪はメドゥーサのように今にも一本一本が蛇になって蠢きそうにユラユラと揺れていた。

 マリア姉さんは静かに顔を上げた(p.58)

 

 「海草」のキムを導いていたマリア姉さんの、あまりにも急な「海草」への変貌!ほどなくキムは「愛しているのよ、キム」「ずっと前から愛していたのよ。あんたは私の執着した、ただ一つのものだったのよ」という衝撃的な告白を聞くことになる。ギリシャ神話のメドゥーサは、相手の目を見据える視線で生身の肉体を硬い石に変えるが、ペルセウスの持つ鏡の盾で自分の目を見ることによって自らをも石化させてしまう。本作では目(eyes)で相手を「見る」人物は、必ず相手に視線を返される。そして返された視線によって、メドゥーサが自分の醜い姿を知るのと同じように、自己認識の劇が始まる。

 

私はマリア姉さんを見詰める。百年間、貯蔵庫に眠らせて置いた金色の酒を注いだようなトロリとした目をしている。私はいつもこの目に酔わされ自分の醜さを思い、自分の関った男を彼女の手に委ね、確認を頼み、自分を劣等生のように感じ安息を得た。彼女はかわいそうな捨て子の私の、絶対だったのだ。

 そしてスプーンと出会って以来、彼が私の絶対だった。私はいつも、あまりにも無知で海草のようにふらふら頼りなくて指導者を必要としていた。

 彼女は私を見詰め返した。私は不思議なくらいに冷静だった。[中略]今、私は男を取られた女になっている。私はそう感じている。」(p.61-62)

 

 後の箇所、スプーンとキムとの視線の往復。

 

 スプーンは肘をついて私を監禁し、ゆっくりと目を開け獲物を見降ろした。[中略]「最後まで見届けろ。オレがお前の上に在るって事を」

泣きださずにはいられない。私は悟る。痛みと快感は酷似していると。スプーンを愛する事は私の心に傷をつける。[中略]

 「見るんだ」

 私は、見た。逃れられない。彼の瞳は私のすべてをものにする。(p.72-73)

 

 キムがマリア姉さんを愛していた時、マリア姉さんも実はキムを愛していた。キムはスプーンを「あんたは私の気持のよいシーツだ」と譬える一方、スプーンもキムを「ライナスの毛布」のように、そして「ふわふわして柔らかい」小さな頃飼っていた猫のように思っていた。いずれの場合も、相手が自分と対称的な認識を持っていたことは、キムの認識の埒外に当初あり、キムはそれを遅れをともなって認識する。生徒から見た教師像、教師から見た生徒像は、交点で微妙に交わって交錯している。生徒としてのキムは、彼我の認識に横たわる溝の存在を二人の教師から「学習」するのだ。「私という、ちっぽけな黒板」にスプーンが書いた数式「2 sweet + 2 be = 4 gotten」(p.92)(忘れ去られるには甘すぎる)を、別れの際に痛みを持って学習するのと同様に。キムがスプーンを忘れ去りなどできなかったことは数式より雄弁にこの小説が書かれていることが示しているし、手記の冒頭は認識の隙間の主題から始められている。

 

 スプーンは私をかわいがるのがとてもうまい。ただし、それは私の体を、であって、心では決して、ない。私もスプーンに抱かれる事は出来るのに抱いてあげることが出来ない。何度も試みたにもかかわらず。他の人は、どのようにして、この隙間を埋めているのか私は知りたかった。(p.9)

 

 性描写に着目しすぎるセンセーショナルな読み方では、例えば1985年ならともかく、現在ではこの小説の存在意義を示すことが難しい。「横須賀の基地」という固有名や米軍兵士との恋愛という設定のみを取り上げ、キムとスプーンの恋愛すべてを日米関係の比喩と見なそうとする時代錯誤な欲望にも注意が必要だ。日本人女性と黒人米兵の恋愛という設定、それはボールドウィンが『もう一つの国』を人種・国籍・セクシャリティーの異なる男女五人を中心に書いたのに似た、主題を浮き上がらせるための作者の苦心と見るべきだろう。虚心に読めば、「ベッドタイムアイズ」は柔らかさと硬さの関係性、自己と他者の認識の齟齬をめぐる論理的な小説である。キムとスプーンは隙間を抱えながらも二人で”もう一つの国”を築き上げる。しかしその領土は、スプーンのIDカードを「ジョゼフ・ジョンソン」の本名の下に管理する現実の国家機関の介入によって、あっけなく消滅してしまう。スプーンが去った後、キムに現実の認識が遅れをともなって訪れる。鋭敏すぎるほどの知覚とともに。

 

 そして、何日かたち、人間の感情が戻って来た時、私は冷蔵庫の中の肉が嫌な匂いをさせて腐りかかっているのに気付いた。それを捨てようとトラッシュ缶の蓋を開けた途端、気分が悪くなって吐いた。[中略]私はやっと思い出した。私はスプーンを失ったのだ。私はもうじき死ぬ病人のような呻き声を出して泣いた。スプーン、どこに行ったの?私は気が狂ったように部屋中をひっくり返してスプーンの残して行った形跡を捜し始めた。(p.96)

 

 シーツの染み、パナマ帽に残った髪の毛、食べかけのチョコレートチップクッキー…。今は不在となったスプーンの残滓を数え上げ喪に服する作業として、小説は書き始められた。今読者が読むこの記録は、「ジョゼフ・ジョンソン」ではない「スプーン」が真に存在した証、「もう一つの国」でのIDとなっているのだ。

 

参考文献

 山田詠美『ベッドタイムアイズ・指の戯れ・ジェシーの背骨』(新潮文庫

 大塚英志サブカルチャー文学論』(朝日新聞社、2004年)

 清水良典『デビュー小説論 新時代を創った作家たち』(講談社、2016年)

第7回天上天下唯我独奇書読書会開催のお知らせ

 がたん!

ーという一つの運命的な衝動を私たちに伝えて、その読書会の告知は開始した。

 

 えんたあ・えんたあ!

 へんかん・しふと・F6!

 えんたあ・えんたあ・えんたあ!

 

ふたたびタイトル。

「第7回天上天下唯我独奇書読書会―。」

 

 こんばんは、Nicoです。今回は昭和モダニズムの香りも高く、北海道は函館中学校で運命的にも先輩・後輩の関係だった2人の文章の魔術師を取り上げます。

 

日時:2017年5月5日(金・祝)14:00~17:00

場所:新宿「らんぶる」地下席

課題奇書:谷譲次『踊る地平線』(上・下)(岩波文庫 発表1929年)

     久生十蘭『魔都』(創元推理文庫、4/21発売予定 発表1938年)

 

 谷譲次林不忘の名義で時代劇史上に残るヒーロー丹下左膳を創造し、牧逸馬の名義では怪奇実話で世を震撼させた多才の人。『踊る地平線』はアメリカ体験記「めりけんじゃっぷ」物で知られていた譲次が天衣無縫な文体で描いたヨーロッパ旅行記で、織田裕二主演のあのドラマにも影響を与えていること間違いなし!「事件は旅行先で起きてるんだ!」

 その後輩久生十蘭は、「作家にとっての作家」と呼ぶにふさわしい技巧的な名文家です。かつて奇書読書会で取り上げた中井英夫が偏愛したことで知られ、『虚無への供物』の探偵役・奈々村久生のネーミングの由来ともなりました。特に『魔都』は昭和九年大晦日~翌昭和十年元旦の帝都東京に巻き起こる怪事件をタイムリミットサスペンスで描いた十蘭の最高傑作で、ほぼレインボーブリッジを封鎖せよ!です。今回、『新青年』連載時の初出から装いも新たにもうすぐ文庫化されるということで、創元推理文庫版を指定させていただきました。(すでに出版されている、奇書ファン御用達のレーベル『日本探偵小説全集8 久生十蘭集』にも『魔都』は収録されているので、そちらを読んで来ていただいてもかまいません。←※3/30追記: これは大ウソでしたごめんなさい!(笑) 『久生十蘭集』には「湖畔」「ハムレット」「顎十郎捕物帖」など代表作が収録されてますが『魔都』はなし。朝日文芸文庫版『魔都 久生十蘭コレクション』をお探しくださいm(__)m)


 今回はぜひみんなでこの2人をいっしょに読みたい!と思ったので2作品になってしまいました。時間の取れない方はどちらかを読了していただければ楽しめる会にしたいと思います。でもでも、「いやいやヒマでしょうがない、もっと奇書読ませてよNicoちゃん!」という方は、ぜひ島田荘司『水晶のピラミッド』を読んでみてください。「魔都」という章があったり、本筋と何の関係もない怪奇実話が語られたり、この2人へのリスペクトがそこかしこに…そして古代エジプトに絡む壮大なミステリーなのにトリックが机上の空論でむちゃくちゃ…なのはそれもそのはず、島田荘司は『牧逸馬の世界怪奇実話』というアンソロジーも編集してるぐらい谷譲次好きなんです。つながった、ぱちぱち。

 

 今回のお題は、「なぜ2人はこの内容を・この文体で書いたのか?」にします。谷譲次には横光利一新感覚派モダニズムが、久生十蘭には坪内逍遥二葉亭四迷経由の江戸戯作的な文体が影を落としているように感じるのは僕だけでしょうか。アメリカや中国大陸をめぐる文化的・政治的情勢なども読み取れそうな気もします。

 奇書読書会に初めて参加してみようという方は@bachelor_keatonまでTwitterでご連絡ください。

 では、当日お目にかかれますことを楽しみにしております。ゴールデンウィークの安逸をむさぼる帝都をBUMP!で染めましょう!!! 

 

 Nico


【追記・参考文献目録(随時更新)】

前田愛前田愛著作集』2~5、特に「SHANGHAI1925 都市小説としての『上海』」(『都市空間の中の文学』所収)

松山巌『乱歩と東京』『群衆』

大石雅彦『「新青年」の共和国』

室謙二『踊る地平線  めりけんじゃっぷ長谷川海太郎伝』

川崎賢子『彼等の昭和』

海野弘久生十蘭  『魔都』『十字街』解読

早稲田文学』1983年11月号「久生十蘭特集」、特に川崎賢子「『魔都』ー「大都会の時間外」のエネルギー」

ユリイカ』1987年9月号「特集: 『新青年』とその作家たち」、特に森常治「フロットサム・カルチャー・わんだーらんど

ユリイカ』1989年6月号 「特集: 久生十蘭  文体のダンディズム」、特に永瀬唯「公園の腸 『魔都』地下迷宮を読み解く」

渡部直己『日本小説技術史』


 

 

新作小説時評(1)

四次元的小説ー『銀河鉄道の夜


 宮沢賢治の新作『銀河鉄道の夜』は、三次元の現実を超えて行こうとする小説の力を感じる作品だった。冒頭の教室の場面で、ジョバンニの先生は星座の図の「ぼんやりと白いもの」について次のように生徒達に語る。

 

「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つの一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にあたるわけです。またこれを巨きな乳の流れと考えるならもっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かに浮かんでいる脂油の球にあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと云いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽も地球もやっぱりそのなかに浮んでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。」(一「午后の授業」)

 

 俯瞰で語りながら、いつの間にかその内側にいる。この作品はそうした外と内のふとした貫通に満ちている。物を凝視していくうち、いつしか物はそのありようを変え、見る者を物の中に引きずりこんでいく。「いちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したものでだまって見ていると何だかその中へ吸い込まれてしまうような気がするのでした」(九「ジョバンニの切符」)と描かれる切符や、「その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってものぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛む」銀河のまっくらな孔=石炭袋は、作品の原理を表す「物」たちである。ジョバンニは丘の草に横たわり銀河を見つめている場面から、気がつくと直前まで見つめていたはずの天の川を走る鉄道に乗り込んでいる。

 

「それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のように考えられて仕方なかったのです。」(五「天気輪の柱」)

気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。」(六「銀河ステーション」)

 

 ここでは「三次空間」での因果律はもはや機能していない。「こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思いました。そして二人は、前のあの河原を通り、改札口の電燈がだんだん大きくなって、間もなく二人は、もとの車室の席に座って、いま行って来た方を、窓から見ていました。」(七「北十字とプリオシン海岸」)のような奇妙な文章が平然とつづられる。銀河は、「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか。」と問うジョバンニに「どうしてって、来ようとしたから来たんです。」という鳥捕りの答えに象徴される、意志が媒介や障害なくそのまま透明に現実になる空間である。それはまた文学空間でもあると、作品は語っているようだ。

 現実では級友のザネリ達に「お父さんから、らっこの上着が来るよ。」と父の服役をからかわれたり、「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を」「何べんも眼を拭いながら」拾う労働で銀貨一枚を得たり、社会という関係の網目の中で生きているジョバンニだが、銀河では親友カムパネルラとの純粋化された友情を育むことに没頭できる。その体験は「すぐお父さんの書斎から巨きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒なページいっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見た」(一「午后の授業」)日の再来のように、ジョバンニに感じられたはずだ。

 

 作品におけるカムパネルラの第一声は「みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった。」(六「銀河ステーション」)であり、友人達特にザネリは排除され、ジョバンニに「(そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)」と幸福な錯覚を起こさせている。また「水筒」も「スケッチ帳」も忘れてきたのに「構わない」と言うカムパネルラは、彼が持つ黒曜石の地図とともに実用性中心の社会から断絶されていることを宣言している。列車が進むうち乗り込んでは話しかけてくる個性的な乗客達は、ジョバンニとカムパネルラが二人でいることを阻害しつつも、かえって二人の関係を強める役割を果たしている。鳥捕りを邪魔と思いつつも「僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったろう。」「ああ、僕もそう思っているよ。」と鳥捕りの喪失を二人で嘆き、「ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行く人はないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談しているし僕はほんとうにつらいなあ。」と他の乗客の介在を嫌い、女の子達が降りたとたん「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。」「うん。僕だってそうだ。」と二人で絆を確認することで、二者関係は純粋化されてゆく。しかし、四次元の銀河を走る鉄道に乗ることでジョバンニが理解したのは、現実という三次空間を離れてさえも、純粋な二者関係が不可能であるということではないか。

 どういうことだろうか。ジョバンニが鉄道に乗ってすぐ、カムパネルラは「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」(七「北十字とプリオシン海岸」)と切り出す。ジョバンニは自分の母を病気のまま地球に残していることを思い出すが、カムパネルラには「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」という鈍感な反応しかできない。そして旅の終わり近く、先ほど引用した「どこまでもどこまでもいっしょに行こう。」「うん。僕だってそうだ。」という会話の直後、ジョバンニは「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」と投げかける。カムパネルラは「僕わからない。」と返すのみなのだが、これはジョバンニに「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」と言われた後とまったく同じ答えである。どれほど解り合える同士でも、家族や幸福という切実な問題には「君の気持わかる」ではなく「わからない」という答えを返すことがもっとも誠実な態度である局面が、必ずある。互いに自らの信じる価値を理解させようとしたジョバンニと家庭教師の青年の「ほんとうの神さま」をめぐる対話がすれ違いに行き着くほかなかったように。そしてカムパネルラが「あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのはぼくのお母さんだよ。」と指し示す先に、ジョバンニは「ぼんやり白くけむっているばかり」のものしか見ることができない。それは冒頭の「ぼんやりと白いもの」に似ているが、天の川のように先生の科学的解説を聞いて他人が了解することを許さない何物かなのだ。

 

「「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえってみましたらその今までカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかり光っていました。」(九「ジョバンニの切符」)

 

 カムパネルラはこの時点で「現実」には死んでいるため、実は作品中の「現実」で一言も発することなく、ジョバンニの前からも読者の前からも姿を消してしまう。しかもカムパネルラの死はジョバンニが嫌っているザネリの生を贖うためのものだったことが後で明かされ、「僕たち一緒に行こうねえ」というジョバンニの呼びかけは宙に浮いたまま終わっている。カムパネルラの喪失を機に、ジョバンニは現実の諸関係から切り離されていた四次元の銀河から醒め、「一さんに丘を走って下りて」三次元の現実に下降してゆく。母親のための牛乳という、現実の必要を思い出したためだ。

 ではジョバンニの見た幻想は、相互理解に至らないカムパネルラとの銀河の旅は、無意味だったのか。丘で体を横たえなどせず、「川へははいらないでね。」という母の言い伝えをジョバンニが早くカムパネルラに伝えていれば、あるいはカムパネルラは命を落とさずに済んだのかもしれない。しかし作品は、カムパネルラの行動も、ジョバンニの未行動も、ともに肯定している。白鳥の停車場でカムパネルラがつまんだ砂、「中で小さな火が燃えている」と言った水晶の粒のように、あるいは大学士が発掘する百二十万年前のボスの化石のように、カムパネルラが散らした命も、不在でありながら燐光を発し、ジョバンニに力を与え続けるだろう。「もういろいろなことで胸がいっぱいで」「もう一目散に河原を街の方へ」走っていくジョバンニが、これからどのように生きるのか、背中を見送る読者にはわからない。しかし、四次元の銀河で「僕はもうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。」と決意したこと、その時カムパネルラという名の友と一緒だったことを、ジョバンニは「三次現実」を生きる中で折々思い出すだろう。それはこの、「まるで粟粒くらいの活字」が銀河のように散らばった四次元的小説を旅した後現実に帰還していく読者も同じなのだ。

 

参考文献

見田宗介宮沢賢治 ー存在の祭りの中へ』(岩波書店1984年)

千葉一幹『賢治を探せ』(講談社選書メチエ、2003年)

押野武志セカイ系文学の系譜―宮沢賢治からゼロ年代へ」(押野武志編著『日本サブカルチャーを読む』北海道大学出版会、2015年. 所収)

僕たちの失敗―『高校教師』論

 生物準備室、昼休み。結婚生活の難しさを自嘲的に語った新庄徹(赤井秀和)に、羽村隆夫(真田広之)が生物学の知識で応じる些細な場面がある(『高校教師』第3話「同性愛」)。

 

羽村「知ってますか?カマキリの共食いの話。」

新庄「ああ、あの雌が雄食ういうやつ?」

羽村「交尾の前、雌は隙あらば雄を食べようとします。まず頭を噛み切ってそれから食べ始めるんです。」

新庄「ん?あの、交尾の後やないの?」

羽村「フフッ。頭がなくても雄の性行為は止まりません。つまり、昆虫の頭は抑制中枢神経の座にあるので、雌は頭を食べることで性行為を活発化することができるんですね。」

 

 この場面は何のために設けられているのか?第1話、羽村の家で二宮繭(桜井幸子)に語られる月のかけらといつか空を飛ぶ人類の話、第2話で二度語られ、婚約者との疎隔と繭との親和を視聴者に印象付けるペンギンの話、それら印象的なエピソードの再演に過ぎないのか?引用した会話の直後の「経験の裏づけのない、知識だけですけどね」という台詞が象徴する、羽村のユーモラスな変人ぶりを演出するシーンか?あるいは繭を愛すことで理性を失ってゆく羽村自身の運命を暗示しているのだろうか?

 そうではない。いや、むしろそのどれもが正解だが、強調されるべきはここで脚本家野島伸司が明確にある書物を参照しているということだ。その記述は動物の「利己的」な行動例の二番目に挙げられている。

 

「いっそうよく知られている例に、雌のカマキリのおそろしい共食いがある。カマキリは大形の肉食性の昆虫である。彼らはふつうハエのような小形の昆虫を食べるが、動くものならほとんどなんでも攻撃する。交尾のさいには、雄は注意ぶかく雌にしのびより、上にのって交尾する。雌はチャンスがありしだい雄を食べようとする。雄が近づいていくときか、上に乗った直後か、はなれたあとかに、まず頭を咬み切って食べはじめる。雌は交尾の終わってから雄を食べはじめるほうがよさそうに思われよう。けれど、頭がないことは、雌の体ののこりの部分の性的行為の進行を止めることにはならないようである。じっさい、昆虫の頭は抑制中枢神経の座であるので、雌は雄の頭を食べることによって、雄の性行為を活発化することができる。」(ドーキンス利己的な遺伝子』p.21-22)

 

 羽村の台詞と引用部末尾の文章が語句の選択を含めて同一であるのがわかる。リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子』(原著1976年)が、『生物=生存機械論』(邦訳1980年)から改題され「科学選書」の一冊として紀伊國屋書店から刊行されたのが1991年。いま手元にあるのと同じ赤白二色の表紙は、第2話で羽村が駅のホームで立ち読みしている場面ではっきりと確認できるから、作中の時間を『高校教師』が放映された1993年として、羽村は生物学の研究者としての興味からドーキンスの主著を読んでいたのだろう。そもそも羽村は、その職業も明確にされない時点で既に、荷物の中身を改めた駅員に「『利己的な遺伝子』?ずいぶん難しそうな本読んでるんだね」(第1話)と話しかけられる存在として視聴者の前に立ち現れるのであり、また婚約者にペンギンの話を披露した後も「まあそこが、リチャード・ドーキンスの指摘する利己的な遺伝子、というわけなんです」(第2話)と付け加えていて、早い時期から『利己的な遺伝子』とのインターテクスチュアリティーは強調されていた。しかしそれでも冒頭の場面が感銘深いのは、野島伸司が実際にこの本(の少なくとも一部)を読んでいたことが証明されるからだ。

 よく知られるように、ドーキンスは動物界の「利他行動」を、遺伝子を搭載した機械としての個体が取りうる最適戦略の一つとして記述しセンセーションを巻き起こした。例えば性的なパートナーシップは「相互不信と相互搾取の関係」に他ならない。

「求愛の儀式に際して、雄はしばしばかなりの量の婚前投資を行うことがある。これは家庭第一の雄を選ぶ戦略の一形態とも考えられる。雌は、交尾に応ずる前に雄が子供に対して多量の投資をするようにしむけ、そのため交尾後の雄はもはや妻子を棄てても何の利益も得られないようにしてしまうことができるのではないだろうか」(p.239)

 ドーキンスの本が話題を呼んだのは、上の引用が代表するように、動物を叙述しながらもそれが人間の比喩とも受け取れる巧妙な文章に理由がある。羽村によれば「普遍的な愛なんてものは、進化の過程においては、何の意味も持たないと言われているんだよ。生物学者は、ある意味で皆そう思ってる。全ての遺伝子が利己的であるという説が正しければ、生き物は皆本質的に孤独なんだ。こうして集う水鳥も…人間だって」(第5話)。しかし、ドーキンスの立論を読んだ野島伸司は、動物と人間は異なる、と感じたのではないか。"愛の名の下に"人間が取る行動は、遺伝子の戦略や計算など超えている、と。『高校教師』は反『利己的な遺伝子』である。藤村知樹京本政樹)は語る―「人間はね、本気で人を愛すると狂いますよ。理性やモラルなんて、何の歯止めにもなりません…例外なく人間はね」(第10話)。動物なら例外なく、狂いなどしないのだ。

 『高校教師』の世界は、半分だけドーキンスと似通った世界だ。『高校教師』は自らの「物語」にしがみつきその承認を求め闘い合う個人たちの記録である。しかし後の半分は、人間的な、あまりに人間的な次元に属している。自らの「物語」とは調和することのない他者に、にも関わらず愛ゆえに深くコミットしていく人間の。本稿では以下、男性キャラクターの視点を中心にこの問題を考察していく。

 

 意外なことに『高校教師』には暴力としての暴力は存在しない。暴力は自らの信じていた「物語」を守るための防衛反応として現れる、きわめて観念的な存在である。近代社会の本質を「承認をめぐる闘争」と看破したのはヘーゲルであったが、第5話の羽村と彼の兄との格闘は「物語」同士の対立が暴力となって現れている良い例である。羽村の突然の婚約解消と高校教師への転身を、弟を大学教授にさせるべく郷里で農業を営み援助してきた身として不満に思う兄に、羽村は初め静かに語り始める。

 

羽村「兄ちゃんは偉いよ。いつも言うことは正しいさ。だけど、兄ちゃんの方こそ…自分、ごまかしてきたんでねえべや?」

兄「俺はおまんとは違う。」

羽村「自分のやりたいことがあったのに、それをば隠してたでねか?結婚相手だって、親の言いなりじゃなきゃあ?自分の夢俺に背負わせて、んで親の面倒ば見てますって被害者面すんのはやめてくりゃえ!」

兄「もう一度言ってみろ。」

羽村「兄ちゃんはなぁ、俺に嫉妬してたのさ。親父は俺のこと可愛がるって嫉妬してたのさ。それなのに親父の面倒だとか、俺に仕送りしてるとかそういう歪んだ自己満足に浸って生きてんのさ。…悲劇の主人公ぶって、同情されてえのは、自分じゃねえかよ!」

兄(羽村を殴り)「お前なんかに農家の長男の気持ちがわかるか!やりたいことやりに、好きなことやりに東京出てった人間にな!」

羽村「やりてえことがあったら、家出でも何でもしりゃよかったねえか!」

兄(再び殴り)「能書きばっか覚えやがって!」

 

 以下本格的な殴り合いに発展するが、長々と引用してしたのは羽村と兄が互いの「物語」の欺瞞を暴き合うさまがあまりに見事に描写されているからだ(全体から見て台詞自体は少ないとはいえ、この羽村と兄の場面、新庄と彼の子の場面は非常に感動的である)。この兄弟の対立自体は、直後のバス停のシーンで「教養ないスケ、あげな言い方しか出来なかったどもな」と言う兄の晴れ晴れした笑顔で和解に導かれるが、しかし二つの「物語」を本質的に調停することはできない。他者を自己の「物語」に従えて統御すること、その最もグロテスクな例が藤村による相沢直子(持田真樹)の強姦である。藤村の行使した「暴力」は性的欲望ではなく(いわば)「物語」的欲望に発しており、だからこそ藤村は自らの犯罪を隠蔽しようと真剣に努力していない。藤村は「恋人ができましてね」と羽村に語り、「男性がその性的に充足すべき対象を求めると現代では一様に低年齢化する」(第4話)と得意げに論じる。新庄の自宅の前で直子を車に寄せつつ大音量のクラクションを鳴らす時の藤村は、「直子は自分を愛する恋人である」という物語に酔い、それを誇示して周囲に承認させようと欲していたのではないだろうか。犯罪の証拠となるビデオテープを突き付けられてもなお「中を見たんでしょ?野蛮とは心外だな…綺麗に撮れてる」「僕は何も悪いことしてないのに」等と口走る藤村はほとんど観念の狂気の世界に足を踏み入れている。「殴ったりして悪かったね…けど、君が僕に対して従順でいてくれないからだよ。僕はただ…君に愛して欲しいだけなんだよ」(第9話)。しかし新庄には藤村の「物語」は「狂っとるわ」としか感じられない。「新庄=信条」・徹、という名を与えられた彼は、「教師は優れた人間であるべき」という信条(「俺は教師である前に人間じゃ!」)に徹するため藤村を許せず、直子を殴った藤村に暴力を加えて失職する。

 かくまでに「物語」の防衛は死活問題である。主人公羽村とて例外でなく、作品前半の彼は「春には結婚して研究室に戻る」と自分にも周囲にも言い聞かせ続け、繭に婚約者が他の男といたことを教えられそうになると「やめろ!言うな!それ以上言うな!…言わないでくれ。俺は何も聴かない。何も見なかったんだ。」(第3話)と、繭の報告と直接関係のない、病院で窃視した光景も含めて否認しようとする。浮気の事実を知ってなお結婚式の招待状を発送し続けるが、「私はあなたが考えているような、箱入りのお人形さんタイプじゃないの」「あんなとこ見て、見ぬふりしようとするなんて」(第4話)と婚約者その人に、父である教授からは「君は何か勘違いをしているようだね。研究室に空きはないんだ」(第4話)と結婚・学問双方の「物語」の欺瞞を暴露されてしまう。「僕は何もかも失ってしまった…」という羽村の述懐には、依るべき「物語」を失った個人の悲痛さがある。羽村が繭を心から求め始めたのはこの時だ。

 

羽村の語り「あの時君は、いつまでもそばにいて、一緒に泣いてくれたんだね。こんなちっぽけで弱虫な僕のために…。」

 

 この部分を岡田恵和脚本の『夢のカリフォルニア』第5話と比較してみたい。山崎終(堂本剛)が就職活動の面接官に人格を否定され、自殺未遂とも思える事故で入院、そこに山崎家の家族と二人の女友達、麻生恵子(国仲涼子)と大場琴美(柴咲コウ)が迎えに来る、という場面。

 

終の語り「僕はうれしかった。一番会いたいと思っていた人が来てくれて、僕が必要だと言ってくれた。それが、うれしかったんだ。二人の手は、あったかかった。」

 

 いずれも主人公が絶望的状況にある所を周囲が共に悲しんでくれることで救われる、という心情を表現するモノローグであるが、野島・岡田両者の特質がはっきりと出ている。岡田恵和作品には必ずと言っていいほど主人公を取り巻く(『めぞん一刻』的な)中間共同体が登場し、男女共に含むほとんど拡大家族と称すべき親密圏(『ビーチボーイズ』・『ちゅらさん』・『泣くな、はらちゃん』)を構成する。(『夢のカリフォルニア』の場合、終の親友二人はいずれも異性に設定されているから一層前景化されるが)この親密圏は原則恋愛とは別次元の論理で作動しており、異性愛はあってもあくまで「複数の中の二人」として扱われる。上の引用で「一番会いたいと思っていた人」が何の説明もなく「二人」であって一人ではないのは、岡田作品では当然なのである。それに対して野島作品の「僕たち」は二人でしかあり得ず、他の者を排除する。言い換えれば、岡田作品では主人公の親密圏が社会親和的であり、野島作品では極めて反社会的である。

 『夢のカリフォルニア』で終は家族の来訪も嬉しがっており、また家族は恵子と琴美を信頼し気を利かせて終を預けその場を外す。このような風通しの良い家族のあり方も、「お前がいなければダメなんだ」(第3話)と床に伏せて娘に懇願し、「その男はお前を本気で愛してなどいない。それは、その男自身が気づいているはずだ」(第10話)と留守電にまで羽村への罵倒を吹き込む、繭の父・二宮耕介の娘に執着する姿とあまりに対照的だ。同じく山田太一を尊敬する両脚本家の分岐は興味深く、また北川悦吏子を二人の間に置くことで、『ふぞろいの林檎たち』から現代に発展したテーマの振幅を近似することができるであろう。

 

 『高校教師』に登場する主要な女子生徒は繭と直子の二人のみであり、実はこの二人以外は恋愛対象としては次々と脱落していく(独身の女教師、教育実習生、新庄の元妻)。これはリアリティーに欠けるように思えるが、制作サイドとしては「教師と生徒の禁断の愛」という話題性を狙いたい事情とともに、脚本家としては「教師と生徒」「父と娘」のように禁忌を設定することで、男性登場人物の「物語」に女性が「他者」としてどう関わるのか、というテーマを純粋化したかったという理由があると考えられる。主要登場人物の範列構造は以下である。

 

上位価値

羽村隆夫

 

新庄 徹

 

 

二宮 繭

 

相沢直子

 

下位価値

二宮耕介

 

藤村知樹

 

 

 この表はいろいろと興味深い情報を含んでいる。上位価値を視聴者に肯定的に、下位価値は否定的に受け取られると想定されるキャラクターの属性とすると、表を横に読めば上段の人物は女子生徒に信頼され、下段の人物は遠ざけられつつ求められている。表を縦に読めば、右列の男性は何だかんだで生き延びているのに比べ、左列の男性は命を失うかそれが強く暗示されている。これは繭の方が直子よりも「他者」としての強度が強いことと関係すると思われる(何かを不可視の内部に秘めた「繭」と、苦境にも負けず頑張る「直」子の対比)。

 また対角線の関係(対偶)も重要である。新庄と二宮は、ともに最終的には女性の前から自らの意志で姿を消す―新庄のように「忘れろ。俺のこともや。」と警告してか、二宮のように繭を去らせた後にそのままでも死ぬ所に自ら火をつけるか、演出の度合いの違いはあれ。彼らは破滅はしつつも自らの視界から他者を抹消することで、実は自らの「物語」を守り切ったとも言える。最終回で羽村が自首しようとするのを、新庄が二宮の自殺する意思を忖度して止めるのも不思議ではない(二宮耕介の焼身自殺は新庄の別離の拡大された比喩である)。もちろん「物語」の防衛は臆病を意味するものではなく、事実新庄は作品中唯一倫理的に賞賛され得る人物である。

 しかしながら、ドラマの人物として輝くのは、当然自らの「物語」を「他者」としての異性に突き崩される登場人物である。羽村―藤村の対角線はこの系列をなし、あらゆる意味で藤村は羽村の陰画である。例えば彼らはイニシャルH. Tを共有し、共に女生徒の肌に痕跡を残す原因となっている(藤村は直子を殴打し、羽村は塩酸をかけられて庇った繭の手首にあざを残す)。上下の位置の違いから、藤村がもたらした痕跡は新庄を激昂させる引き金となるのみだが、羽村による痕跡は繭に二人の絆の象徴として愛おしく思われ(形成外科で治ると医師に言われたのに治療していないためそう推定される)、羽村自身も旅館で二人になった時、繭のこのあざに接吻する。

 それでは二人の「物語」の結末を見てみよう。藤村は新庄との一件を経ても、病院に見舞いに来た直子に対して「君も僕を愛してはくれなかったんだ!女なんてみんなそうだ!」と、自らの「直子は自分を愛してくれる」という物語に拠った、独善的な発言しかできない。直子の返答、「先生…女の子はもっとちゃんと好きになるよ。男より、ずっと真剣にしてるよ」(第10話)の前に、象徴的にも転倒して松葉杖を失う藤村は起き上がることすらできず、実質的に作品から退場する。

 では羽村はどうだろうか。近親相姦の事実を知ってしまった後の羽村にとって、繭はもはや「羽村の知る繭」ではなく、「ほんとうの繭」すなわち「他者」である。この「繭」像の二重化は、作品の序盤から羽村の靴箱に入れられていた「助けて」のメッセージの書き手が繭であり、羽村と身体を重ねてからもずっと羽村に秘密のまま投函していたことが明らかになるという、ドラマの時間性を最大限に利用した演出によって、鮮烈に印象付けられる。自身置き手紙に「あたし、先生と普通の恋がしたかった。…バカだねあたし、自分はちっとも普通じゃなかったのにね」(第10話)と後になって書いているように、繭は絶対的なアウトサイダー、単独者である。

 ここで羽村は「他者」である繭とのコミュニケーションを諦めて自らの「物語」に撤退することもできたし、そうすることが道義的でない態度だとは誰にも言えない。しかし羽村はコミットメントを選ぶのだ。羽村は二宮家から繭を連れ出す時、「僕は…彼女の教師です」と言えばよかった。にもかかわらず彼は「僕は…彼女を愛しています」と二宮耕介に告げてしまう。

 

羽村の語り「生まれて初めて”愛してる”という言葉を口にした。ただ、あの時の僕は、一方で君に、まだ拭い切れない、嫌悪感を抱いていた…」(第9話)

 

 もはや羽村は「物語」の承認を求めてなどいない。むしろ嫌悪で「物語」が破砕されるかもしれなくとも、繭と関わろうとしている。後に彼が二宮耕介を刺す時の空ろな表情は、愛するという営みを本当には遂行した時人間はどうなるかを、その極限において示している。

 第10話での羽村は、かつてあれほど好んだ生物学の話題(「コオロギの順位制」についての論文)を、せがまれても話さない人間になっている。彼はおそらくどこかで、動物界と人間界のアナロジーが成り立たないことに、自らの人生を贖うことで気づいたのだろう。明らかに彼らは失敗した。しかし彼らはその失敗をもって、愛するとは本当には何かを開示している。視聴者にすぎないわれわれは画面の中の彼らに想像的にコミットすることで、われわれ自身が真に、動物とは異なった人間であることを確かめることができるのだ。われわれは羽村と繭の物語を目撃し、感情移入し、承認する。その意味では、彼らは闘争に勝利したのである。

 さて、「『高校教師』は反『利己的な遺伝子』である」とこの論は始められた。しかしドーキンスであれば、『高校教師』こそが『利己的な遺伝子』の正しい解釈だと言うかもしれない。末尾でドーキンスは、急に人間の独自性を謳歌するからだ。

「われわれは遺伝子機械として組立てられ、ミーム機械として教育されてきた。しかしわれわれには、これらの創造者には歯向かう力がある。この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである。」(p.321)

 遺伝子に反逆し、生物的に失敗することこそが、「僕たち」=われわれの成功なのかもしれない。

第6回天上天下唯我独奇書読書会開催のお知らせ

Happy Barthday!!

 

 ある意味では、僕、Nicoです。ボブ・ディランが「行けたら行く」と言ってノーベル文学賞を受賞したのを知ってる人も、実はその前にジョン・バースが「もらえるならもらう」と言って必死に賞もらおうとしてたことは知らないのでは?今年2017年はバースがデビューして60周年、アメリカ屈指のポストモダン-メタフィクション奇書作家にして万年ノーベル文学賞落選候補筆頭、愉快な天才ジョン・バースのHappy Barth-yearを皆で祝おうではありませんか!

「バースは初めて…」というアナタでも大丈夫!『酔いどれ草の仲買人』『やぎ少年ジャイルズ』『レターズ』などのいずれ劣らぬ大作の前に、この読書会はチャーミングな中編集『キマイラ』からスタートします。バースに興味ある方は今がチャンスです!今から50日オペレーターを増員してお待ちしています!!

 

日時:2017年3月11日(土)14:00~17:00

場所:新宿「らんぶる」地下席

課題奇書:ジョン・バース『キマイラ』(新潮社、國重純二訳)

 

『キマイラ』はアラビアンナイトに登場するシェヘラザードの妹を語り手にした短編「ドニヤーザード物語」と、ギリシア神話の英雄譚に材を取った2つの中編「ペルセウス物語」「ベレロフォン物語」からなる中編集です。キマイラとはベレロフォンが倒すライオンとヤギとヘビの複合した怪物の名であり、名は体を表すというようにこの作品の複層性・異形性も表しています。第2回奇書会で読んだ『アラビアの夜の種族』や、第3回で取り上げた『優雅で感傷的な日本野球』の「日本野球創生綺譚」にも思わず手が伸びるところです。

 今回のお題は、「それぞれの物語の語り手は、誰に・何のために語っているのか?」とします。ややこしい小説なので(読み始めればすぐわかります)できれば早めに読み、当日までいろいろ考えをめぐらせてきてください。

 初めて参加される方は、人数調整の関係で@bachelor_keatonへ事前に参加希望のご連絡を頂けますよう。

 それでは、作者バースになりかわりまして、当日のバース・デイパーティーにて皆さまをお待ちしております。

 

Nico