第10回天上天下唯我独奇書ロスろす会開催のお知らせ
今年5月22日、アメリカ文学を代表する作家フィリップ・ロスが亡くなりました。『さようならコロンバス』で鮮烈デビューしてからの文学的業績は、青春小説あり、政治劇あり、ユダヤ系らしく自分の家族を題材にした自伝的小説もあれば奇書的なメタフィクションもある、とまさに変幻自在。あまりに才能豊かだったロスの死を悲しんでOLが翌日会社を休む「ロスろす」も社会現象になりました。ドン・マクリーンがバディ・ホリーの事故死を悼んで名曲「アメリカン・パイ」を作ったように、世界が衝撃に包まれました。しかしその作風の広さが、一人で作品を読んでいく読者にはなかなか全貌がつかめずもどかしい思いをさせたこともあったと思います。そう、平成最後の冬にこの企画が現れるまでは‥。
「ロスってだれ?」「ユダヤ系作家だし難しそう」「亡くなったと聞いて読みたいけど、何から読んでいいかわからない‥。」もうそんな心配ともさようなら平成くん。奇書読書会の記念すべき第10回アニバーサリー企画は、ロスの偉大さを参加者全員で偲ぶLIVE AIDふうのパーティーです。みんな参加しても、エーオー。エーオー!エオエオエオエーオ!
日時: 2018年12月29日(土)15:00~18:00
会場: 藤和新宿コープ909号室【新宿三丁目貸会議室】
東京都新宿区新宿2-6-3(新宿三丁目駅から徒歩2分。C5出口最寄り)
課題書: フィリップ・ロス『ポートノイの不満』(集英社文庫など)
この他にも、ロスの偉大な業績を振り返るため、『さようならコロンバス』『われらのギャング』『ゴースト・ライター』『欲望学教授』『素晴らしいアメリカ野球』『背信の日々』『わたしはコミュニストと結婚した』『プロット・アゲンスト・アメリカ』などなど、についての参加者それぞれによる報告大会もあります。報告で全貌を知った後でもう一度『ポートノイの不満』を読むと、発表当時「卑猥」「ユダヤ人差別を助長する」「反ユダヤ主義的」「長い」「つまらない」「ネットで読了ツイートを見ない」と非難ごうごうだったこの小説の、ロスらしい一面が見えてくるかも?!
参加される方は、PCアドレスを、DM等でツイッターの@bachelor_keatonのアカウントに教えてください。添付資料を送ります。
それでは、当日お会いできるのを楽しみにしています。イデダ、イデダ、ザッツオッケー!!
第9回天上天下唯我独奇書読書会開催のお知らせ
ハロー、<ナルシス>の住人のみなさん。わたしはジョン・バース。この<ナルシス>の創造主だ。このメッセージが届く頃、私は死んでいるだろう。
この世を去る置き土産に、『酔いどれ草の仲買人』の作品内のどこかにこの本すべての意味が理解できるイースターエッグを隠した。エッグを手に入れた者に、わたしの財産および会社の経営権の一切を譲り渡す。エッグはあからさまに目につく本文の表層にあるかもしれぬし、奇書の森の奥深くに気づかれぬモチーフとしてひっそりと置かれているかもしれぬ。君たちにはゴーグルをつけ、十七世紀の詩人エベニーザーのアメリカ行きで巻き起こる冒険をプレイしてほしい。わたしは家庭教師バーリンゲームの姿をとってたびたび君たちの前に現れるだろう。
では、狩りを始めようではないか!!
(音楽とともにタイトル)
READY READER ONE
日時:2018年6月30日(土)14:00~17:00
場所:新宿三丁目 軽食・喫茶「らんぶる」地下席
課題奇書:ジョン・バース『酔いどれ草の仲買人』1・2(野崎孝訳、集英社世界の文学<35><36>バース)
初めて奇書の会に参加する方は、Twitterで@bachelor_keatonに連絡してエントリーしてください。
それでは、良い旅を。To the egg!
READY READER ONEⒸ2018 All Rights Reserved.
THIS MOVIE WAS SHOT AND FINISHED ON FILM.
「どこもかしこも駐車場」と風景の発見
森山直太朗の最高傑作
森山直太朗はJ-POPの異端児である。時に「文学的」「難解」とされる彼の楽曲は一方で、「太陽」などを少数の例外として、「さくら」にせよ「夏の終り」にせよ「生きとし生ける物へ」にせよ「そしてイニエスタ」にせよ「どうしてそのシャツ選んだの」にせよ近年の「嗚呼」にせよ、サビの一節をぶっきらぼうに付けたような即物的なタイトルを持っている(その最たるものが「うんこ」であることは言うまでもない)。直太朗(と共作者・御徒町凧)にとって、J-POPのタイトルの多くがかもし出したがる象徴性よりも、「文字通り」感の方が重要なのだろう。深層や目に見えない心の動きではなく、表面へ、目に見える事実への徹底。この歌詞世界が音や声そのものへのこだわりと出会うことで、直太朗の楽曲は、叙情歌が幅を利かせる日本の音楽シーンにあって数少ない叙景歌の伝統を形作っている。「どこもかしこも駐車場」(2013)は、七五調の連なりが俳句を思わせもする、直太朗の美質が完璧に発揮された最高傑作である。
「駐車場」の意味は?
別れ話の帰り道 悲しくなんてなかったよ
フラれた方は僕なのに 泣いていたのは君の方
どこもかしこも駐車場だね どこもかしこも駐車場だよ
どこもかしこも駐車場だわ どこもかしこも駐車場だぜ
どこもかしこも駐車場 こんなになくてもいいのにさ
駅前はやたら騒がしく 野球帰りの子供たち
プードルが変な服着てる 本屋に寄って帰ろうか
どこもかしこも駐車場だね どこもかしこも駐車場だよ
どこもかしこも駐車場だわ どこもかしこも駐車場だぜ
どこもかしこも駐車場 車があったら便利かな
歌っている語り手は、「君」にフラれるという悲しいはずの出来事を体験したのに、泣いた「君」とは対照的に「悲しい」という感情を持つことができない。彼の眼に映るのはひたすら駐車場。感情を失ったまなざしで駐車場を見つめ続ける彼の脳内に、「どこもかしこも駐車場だね」「どこもかしこも駐車場だよ」という匿名的な声が響く。帰りの駅前でも彼は何かすることがあるわけでなく、子供たちやプードルが喧噪の中行き交うのをぼんやり見つめ、本屋にでも寄るかと考えたりする。「君」と別れてから、語り手が誰とも一言も話していないのは明らかだ。増えている駐車場を見ても、語り手は「車があったら便利かな」というぼんやりした感慨しか持たない。「あったら」という以上今は車を持っていないし、この頼りなさから見ても彼が車を買う日は来ないだろう。言い換えれば、語り手にとって駐車場は「こんなになくてもいいのに」と通りすがりに思うぐらいに無縁な、よそよそしい存在である。
ではなぜこんなに繰り返さなければならないほど、駐車場が気になっているのか?発表当時さまざまな解釈を呼んだ箇所だが、先に述べた直太朗の特質から考えて駐車場は文字通り駐車場だというほどの意味しかないだろう。しかし駐車場が「別れ話」の行われた場所(公園?遊園地?店?)や「騒がし」い駅前とは異なる、無機質なコンクリート敷きの空間であることは想像できる。そもそも駐車場とは、何らかの施設を利用するため車を停めるための空間である。語り手は街を歩く時、彼女がいた昨日までは「君」といっしょに行く店や場所を探していただろう。彼女と別れて初めて、駐車場の無機質な空間が意識に表れて来たのだ。ここでは空間認識における図と地の反転が起きている。
風景の発見と孤独の発明
明日は朝からアルバイト 夜の予定は特にない
百年経ったら世界中 たぶんほとんど駐車場
どこもかしこも駐車場だね どこもかしこも駐車場だよ
どこもかしこも駐車場だわ どこもかしこも駐車場だぜ
どこもかしこも駐車場 そろそろ火星に帰りたい
心を揺さぶらざれるを得ないハーモニカの間奏を経て歌い出される3番、「夜の予定は特にない」の箇所で語り手は一瞬感傷を覗かせかける。しかし凡百のJ-POPであれば「だから君を思って歌うよ」とでも続けそうな瞬間に、直太朗は鮮やかに駐車場の話題に戻ってみせる。世界中が駐車場で覆われるイメージはエントロピーの増大と無機的な物の勝利を意味し、「百年経ったら」語り手自身は当然死んでいるため、この一節は二重に死と絡まっている。そして語り手は人間のいない不毛の地である火星を思い浮かべ、そこを虚構の故郷として「帰りたい」とまで思うのだ。「君」という安息の場所を失った語り手にとって、故郷は決定的に喪失されている。
「どこもかしこも駐車場」のPVをYouTubeで視聴することができるが、上野公園の不忍池で歌う直太朗の周りを行きかう人々はみな一様にスマートフォンの画面を見ながら歩いている。おそらく昨日までの語り手も彼らの一人だったにちがいない。失恋によって「君」との、そして社会とのつながりを失ってしまった語り手は、そこで初めて顔をスマホ画面から上げ、周囲の風景を見回して駐車場の多さに驚いたのだろう。「君」につながっていない、荒涼とした「ただの風景」を発見した語り手は、同時に「ただの自分」をも発見している。火星にしか故郷を求められないような孤独の中から、この歌は生み出されたのだ。
インディヴィジュアル調書―大江健三郎全小説全読書会④
非日常生活の冒険ー大江健三郎全小説全読書会③
場所: 名曲・珈琲「らんぶる」(東京メトロ新宿三丁目駅下車すぐ) 地下席
課題書: 『大江健三郎全小説第1巻』より『芽むしり仔撃ち』(1958年発表)
参加費: 飲食代のみ
第8回天上天下唯我独奇書読書会開催のお知らせ
こんばんはみなさん、Nicoです。この年末、半年以上のお休みを経て奇書読書会が帰ってきます!今回読むのは、「人は奇書を読むことはできない。再読することもできない。」という本読みの胸にしみる名言を残したあの作家の、今年いよいよ翻訳された大作です。
日時:2017年12月28日(木)17:00~20:00
(※変更しています!ご注意ください。)
場所:新宿三丁目 軽食・喫茶「らんぶる」地下席
課題奇書:ウラジーミル・ナボコフ『アーダ[新訳版]』上・下(若島正訳、早川書房)
「ア。アー。アーダ。」のあまりにも有名な書き出しに導かれ、突如挿入される「テラ」をめぐる999行の詩篇に惑わされ、紙背に潜む注釈者の影に脅えながら、ともにこのとてつもない小説を語りましょう。
今回初めて参加される方は、Twitterで@bachelor_keatonまでご連絡を。
ここに書きたいもっと、もっと多くのものがありますが、当日までお楽しみに。
City of Words of the Dead
序論
「僕は知るべきすべてを知っている / 僕はジョージ・ロメロからすべてを学んだんだ
ダリオ・アルジェント、トム・サヴィーニ、スチュアート・ゴードン、サム・ライミからも」
― Sprites「George Romero」
映画はその誕生時から、白と黒との境界線を主戦場にするメディアだった。地である背景から図である人物をいかに浮き立たせるか。白黒二色の濃淡のみで世界を捉えざるを得ない初期の映画作家は、執拗に去来するこの課題と向き合わざるを得なかった。その結果、ほとんど偶然の産物として彼らが発見したのは、現在までハリウッド映画を規定する 「内部/外部の争い」という主題である。
アメリカ映画の父と名指されるD.W.グリフィスは、代表作『国民の創生(The Birth of a Nation)』(1915)において「内部/外部の争い」を模範的な形でショットの連鎖に構成することに成功した。南北戦争やリンカーン暗殺など近代アメリカの様々な歴史的事件にふれる叙事詩的大作のラストは、荒野の中の小屋(cabin)の中に隠れるフィル・ストーンマン(エルマー・クリフトン)や婚約者マーガレット・キャメロン(ミリアム・クーパー)らのキャメロン一家と、彼らを捕らえに荒野から迫りくる黒人達との撃ち合い、そしてフィル達を救いに大挙して駆け付けるKKK、という図式が主になっている。テーブルを倒し支えにすることでドアを死守しようとするフィル達の努力も空しく、黒人達は窓からドアから手を入れ頭を入れ内部に押し入ってくる。もはやこれまで、と思われた矢先、白装束のKKKが馬に乗って駆け付け、小屋の境界は保たれる。『国民の創生』が「ハッピーエンド」の映画として終わることが意味しているのは、小屋の境界がそのまま、内部の者は国民(nation)であり/外部の者はそうではないことを意味する境界になっていることだ。
後にハリウッドに渡りサイレント末期のアメリカ映画界を代表する傑作を撮ることになるF.W.ムルナウは、ドイツ時代の『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)において境界の主題を映像化している。ブラム・ストーカー『ドラキュラ』を原作とするこの作品で最も印象深い場面は、ジョナサンの妻ニーナが寝室の窓から見える向かいの建物の多くの窓の一つにこちらを見据えるドラキュラ伯爵を幻視する場面だ。街ではペストが大流行しており、役所からは「窓を閉めるように」という布告が出され、サイレント映画のテロップとしても映し出されている。窓は安全/疫病の境界として機能している。にも関わらず、後にニーナは窓を大きく開け放ち、キリストのように両手を広げてドラキュラを迎え入れることになってしまう。
1960年代以降初期アメリカ映画に顕著だった「内部/外部の争い」の主題を最も忠実に継承し、それによって実質的にアメリカ映画をもう一度復活させた映画作家がジョージ・A・ロメロである。彼のデビュー作 『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)が、家に立てこもり窓やドアを密閉しようとする人間たちと境界を突破して外から迫りくるゾンビたちの死闘を描き、終幕で駆け付ける保安部隊によって黒人の主人公が銃殺されるという、『国民の創生』を反復した内容を持つことは偶然ではない。しかしそこで賭けられている境界はもはや「国民/国民でない者」を分かつ線ではなく、より根源的な 「人間/人間でない物」の境界である。「人間/人間でない物」の境界を探ることで人間の条件をあぶり出すことが、ロメロの生涯のテーマであった。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』でガラス窓としてわかりやすく表象できた境界は、『ドーン・オブ・ザ・デッド』(1978)ではショッピングモールのなめらかなアクリル板となり、『デイ・オブ・ザ・デッド』(1985)では境界を乗り越えるゾンビが現れる。三部作を通して境界の問題は深化し、ゼロ年代の三部作に結実していく。
ロメロを「ゾンビ映画の父」と顕彰する向きがあるが、正確ではない。ゾンビの導入はもちろん素晴らしいアイディアであるが、ロメロの最大の功績は「内部/外部の争い」を特権的なジャンルとして立ち上げたことである。ほとんど独力でホラー映画とアクション映画の融合に成功したロメロは、「活劇の父」と呼ぶにふさわしい。ここで言う活劇とは、①登場人物たちが家など閉鎖空間に立てこもり、②外部から迫りくる敵と死闘を繰り広げ、③心理の帰趨と何ら関係なく銃による物理的な破壊のみが勝敗を左右する、アメリカ映画のジャンルである。私たちはそうした映画を見慣れているが、それはロメロ以前にはなかったものなのだ。
ジョージ・A・ロメロは2017年7月16日に永眠した。以下、ロメロの代表作を中心に論じられる各章は、「僕たちがロメロから学んだすべて」の偉大さを示すために書かれている。そして当然ながら、本書『シティー・オブ・ワーズ・オブ・ザ・デッド』は遠からず甦ってくれるだろうロメロ御大に捧げられる。