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総括2016年の文化(後編・上)

 ここで今年日本で作られたテレビドラマに目を向けることにしよう。結論を先取りして言うなら、さまざまなジャンルが花開いているように見えるドラマ界は、市場社会におけるアイデンティティーの強調という傾向にますます収斂している。

 『ゆとりですがなにか』(日テレ、4~6月)は、脚本家・宮藤官九郎が初めて手掛けた社会派ドラマとして注目された。ゆとり第一世代の大手食品会社サラリーマン坂間(岡田将生)、小学校教師山路(松坂桃李)、風俗店呼び込みをしながら11浪中のまりぶ(柳楽優弥)の三人が「レンタルおじさん」(吉田鋼太郎)の媒介とひょんな偶然をきっかけに知り合い、「これだからゆとりは」とレッテルを貼られたり、社会の理不尽な圧力に押し潰されそうになったりしながら奮闘していく、というのが大枠のストーリーだ。

 社会に出てある程度のキャリアを持つ坂間と山路にとって職場は責任と引き換えに様々なクレームを受ける場であり、坂間は部下の山岸、山路は実習生の佐倉先生(吉岡里帆)の彼氏・静磨という年下のゆとり第二世代に怒鳴られても何も言い返せない不安定な立場に置かれている。坂間はサラリーマンでありながら焼き鳥チェーン店「鳥の民」の店長を任され、山路は学級担任を任され、食中毒の後処理や学芸会の配役で苦労してもそれぞれ立場上言えないことばかりだ。二人は不満をレンタルおじさんや仲間たちの前でさらけ出し、その時だけ真の自分に戻る。彼らに比べれば社会との葛藤が少ないように一見見えるまりぶは、ある時坂間の仕事ぶりについてしみじみと言う。

 

「かっこいいよ。自分にとって大事なものなものちゃんとわかってるし、そのためにハードな状況でズタズタに傷つきながら戦ってるし。

 俺さー、あの店[※坂間が働く焼き鳥屋「鳥の民」]の何が好きかってさ、坂間っちの働きっぷりなんだよね。それを見せたかったの、今日職場の奴らに。

ゆとりゆとり言うけどさ、あんなにゆとりのねぇ奴もゆとりなんだぜって。いろんなとこにぶつかって、皿割って怒鳴られて、タレと塩間違えて水道で洗ってさ、いねぇよそんな奴。向いてねぇよ。でもかっこいいじゃん。あの姿見てたら、おれなんかやらなきゃって思うじゃん。自分探してる場合じゃねぇなって。」(第8話)

 

 まりぶは自分の個性や適性を云々せず一生懸命働く坂間の姿勢を間近で目にしたのをきっかけに「自分探し」を諦め、持論だった「入りたい大学」の東京大学でなく「入れる大学」の東京中央大学に入学したことが最終話で明らかになる。

 しかし、焼き鳥屋でのプロポーズを機に恋人の茜(安藤サクラ)とともに会社を辞職し、実家の酒蔵を継ぐという坂間のライフコースが示すのは、坂間は「自分探し」を断念して仕事を選んだのではなく、むしろ仕事こそが「自分探し」の場となっているということだ。

 坂間は会社を辞めた今後も、「鳥の民」を任されていた頃と同じく懸命に働くだろう。時には仲間達に仕事の辛さを打ち明けるだろう。それらの総体を、彼は自分の人生として選択したように思われる。実家で造る酒の銘柄を「ゆとりの民」と名付けたのも言葉遊びにとどまらず、競争熾烈な日本酒市場でも自分は自分の価値で勝負するのだという宣言である。

 では今後も教壇に立ち続けるだろう山路はどうだろうか。最終回で彼は性教育の時間を使って次のように語る。その授業は通常の性教育のイメージとはかけ離れたものだ。

 

 「果たして、完璧な大人っているのかなって、先生思います。例えば、来年山路30です。みんなにとって30歳って言ったら立派な大人だよな。でもね、二十年後、みんなの二十年後、自分たちが30歳になった時、きっとこう思う。『うーわ、まだ全然子供だよ。山路こんなだったのか』って。『彼女いねえ』とか、『バイト行きたくねえ』とか、『まだ童貞だよ』とか、『山路と一緒かよ』とか。みんなのお父さんとお母さん、完璧な大人ですか?寝坊するよね、酔っぱらって喧嘩するよね、おならするよね。体と違って、心の思春期は生きている限り続きます。だから、大人も間違える。なまける。逃げる。道に迷う。言い訳する。泣く。他人のせいにする。好きになっちゃいけない人を好きになる。すべて思春期のせいです。大人も間違える。そう、間違えちゃうんだよ。だから、他人の間違いを、許せる大人になってください。」(最終話)

 

 山路の提出する大人像は決して完璧な大人ではない。決して甘くはない社会の中で働き、迷い、間違い、傷つき、傷つける人生の総体を、彼は「心の思春期」として力強く肯定してみせる。坂間も、山路も、まりぶも、未だ心の思春期を生きている。彼らは現実から離れることなくその中で自分探しを続け、「ゆとりですがなにか」とまぶしいほどに居直っているのだ。

 

 三谷幸喜脚本『真田丸』(NHK、1~12月)もまた、時代劇・大河ドラマでありながら「心の思春期」を生きる主人公を描いた作品である。主人公真田信繁堺雅人)は、青年時代までは調略の名手である父・真田昌幸草刈正雄)の存在に圧倒され、大坂に上ってからは豊臣秀吉小日向文世)の世話や他武将との調停に追われ、秀吉死後は石田三成山本耕史)の暴走をとどめ、と歴史の大きな動きに流されながら常に二番手・三番手の道を歩んできた人物である。関ケ原の戦いで豊臣方に付き九度山に幽閉を申し付けられるのも、徳川家康内野聖陽)の念頭にあるのは昌幸の存在であり、信繁は父に連座させられたにすぎない(実際、以下の場面で家康は信繁をほとんど見ずに昌幸に語りかけている)。

 

 「戦には勝ったのになぜこのような目に遭わねばならぬのか、さぞ理不尽と思うておろう。その理不尽な思い、さらに膨らませてやる。わしはおぬしから一切の兵と馬と武具と金と城と、そして今後戦に出る一切の機会を奪う。残りの人生を高野山の麓の小さな村の中で過ごすのだ。一、二年で帰って来られるなどとゆめゆめ思うでないぞ。十年になろうが二十年になろうが、おぬしは死ぬまでそこにおるのだ。この生き地獄、たっぷり味わうがよい。真田安房守、二度と会うことはなかろう。」(第37話「信之」)

 

 この家康のセリフが画期的だったのは、大河ドラマの中で、武将にとって戦をすることは必要でも正義でもなく生きる甲斐であると正面から宣言した点だ。『ゆとりですがなにか』の坂間にとって仕事が自分探しの不可欠の要素だったように。戦の機会を奪われ抜け殻のようになった昌幸の死後、『真田丸』は「戦に出る=生きがいを求める」か/「九度山村に残る=家庭を取る」かの困難な選択を下す信繁に焦点を当てる。そして信繁に決断を促す役割を担うのが、作品中での視聴者代表と言ってよい(彼女だけはなぜか現代語で話す)きり(長澤まさみ)である。

 

きり「あなたに来て欲しいと思ってる人がいるんでしょう?助けを求めている人達がいるんでしょう?だったら」

信繁「私に何ができると言うんだ。」

きり「ここで一生終えたいの?あなたは何のために生まれてきたの?」

信繁「私は幸せなんだ。ここでの暮らしが。」

きり「あなたの幸せなんて聞いてない。そんなの関わりない。大事なのは、誰かがあなたを求めているということ。今まで何をしてきたの?小県にいる頃は父親に振り回されて、大坂に来てからは太閤殿下に振り回されて。」

信繁「振り回されていたわけではない。自分なりに色々と考え、力を尽くしてきた。」

きり「何を残したの?真田源次郎がこの世に生きてきたという証を何か一つでも残してきた?聚楽第の落書きの咎人、とうとう見つからなかったわね。沼田を巡って談判もしたけれど、最後は北条に取られちゃった。氏政様を説き伏せに、小田原城に忍び込んだみたいだけど、氏政様が城を明け渡したのは、あなたの力ではないですから。後から会いに行った、なんとか勘兵衛さんのお手柄ですから。

何もしてないじゃない。何の役にも立ってない。誰のためにもなってない。」

信繁「うるさい!」(第40話「幸村」)

 

 しかしこの直後信繁はきりに礼を言い、名前を「幸村」と改名、九度山村を抜け出して大坂城に入る決断を下す。当時の大坂城は秀頼・茶々を中心とする豊臣家と豊臣恩顧の大名の他、諸国から集まった牢人達で膨れ上がり、複雑怪奇な組織となっていた。請われる形でやってきた信繁は父譲りの策を練ってイノベーションをもたらそうとするが、茶々などの度重なる反対に合って撤回を余儀なくされる。しかし信繁は「最後まで望みを捨てぬ者にのみ、道は開ける」と信じ、変更案を提出し続ける。『半沢直樹』(TBS、2013年)で大組織の中の中間管理職を演じた堺雅人の面目躍如とするところだ。しかし豊臣側にしてみれば、信繁の登用は持ち札の中でベターな選択をしたにすぎず、あくまで彼は社会の中で代替可能な武将の一人なのだ。当然、信繁の提案は通らない。

 信繁は大坂冬の陣・夏の陣で大軍を率いて徳川軍と戦うという武将として最高の生きがいを得るが、その代償に命を落とすことになる。最終回、信繁は出陣の直前に「私は私という男がこの世にいた証を何か残せたのか」と問いかける。答えるなら、上杉景勝遠藤憲一)に「武将に生まれたからには、あのように生き、あのように死にたいものだ」と言わしめた信繁の「見事な戦いぶり」は、見る者に証を残したと十分に言えるだろう。しかしそれが信繁の家庭の幸福や生命を贖ってまで手に入れるべきものだったかは重い問いである。たとえ勤め先がブラック企業でも、人は自らの仕事を果たすべきなのか、果たそうとしてしまうのはなぜなのか。この問いの構成は、『真田丸』をまぎれもなく2016年の作品にしている。

 信繁が最後まで望みを捨てず晴れやかに振る舞うからこそ一層、味方であるはずの豊臣側から「徳川に寝返った」と信用されず、アイデンティティーであるはずの策を発揮する余地もなくなり進退窮まって一直線に突撃していく姿に悲壮感が漂う。上杉景勝とともに「さらばじゃ!」と信繁に別れを告げ、われわれは再び現代を舞台とする作品に戻ることにする。(つづく)