「どこもかしこも駐車場」と風景の発見

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森山直太朗の最高傑作

 森山直太朗はJ-POPの異端児である。時に「文学的」「難解」とされる彼の楽曲は一方で、「太陽」などを少数の例外として、「さくら」にせよ「夏の終り」にせよ「生きとし生ける物へ」にせよ「そしてイニエスタ」にせよ「どうしてそのシャツ選んだの」にせよ近年の「嗚呼」にせよ、サビの一節をぶっきらぼうに付けたような即物的なタイトルを持っている(その最たるものが「うんこ」であることは言うまでもない)。直太朗(と共作者・御徒町凧)にとって、J-POPのタイトルの多くがかもし出したがる象徴性よりも、「文字通り」感の方が重要なのだろう。深層や目に見えない心の動きではなく、表面へ、目に見える事実への徹底。この歌詞世界が音や声そのものへのこだわりと出会うことで、直太朗の楽曲は、叙情歌が幅を利かせる日本の音楽シーンにあって数少ない叙景歌の伝統を形作っている。「どこもかしこも駐車場」(2013)は、七五調の連なりが俳句を思わせもする、直太朗の美質が完璧に発揮された最高傑作である。

 

「駐車場」の意味は?

別れ話の帰り道 悲しくなんてなかったよ
フラれた方は僕なのに 泣いていたのは君の方

どこもかしこも駐車場だね どこもかしこも駐車場だよ
どこもかしこも駐車場だわ どこもかしこも駐車場だぜ
どこもかしこも駐車場 こんなになくてもいいのにさ

 

駅前はやたら騒がしく 野球帰りの子供たち
プードルが変な服着てる 本屋に寄って帰ろうか

どこもかしこも駐車場だね どこもかしこも駐車場だよ
どこもかしこも駐車場だわ どこもかしこも駐車場だぜ
どこもかしこも駐車場 車があったら便利かな

 

 歌っている語り手は、「君」にフラれるという悲しいはずの出来事を体験したのに、泣いた「君」とは対照的に「悲しい」という感情を持つことができない。彼の眼に映るのはひたすら駐車場。感情を失ったまなざしで駐車場を見つめ続ける彼の脳内に、「どこもかしこも駐車場だね」「どこもかしこも駐車場だよ」という匿名的な声が響く。帰りの駅前でも彼は何かすることがあるわけでなく、子供たちやプードルが喧噪の中行き交うのをぼんやり見つめ、本屋にでも寄るかと考えたりする。「君」と別れてから、語り手が誰とも一言も話していないのは明らかだ。増えている駐車場を見ても、語り手は「車があったら便利かな」というぼんやりした感慨しか持たない。「あったら」という以上今は車を持っていないし、この頼りなさから見ても彼が車を買う日は来ないだろう。言い換えれば、語り手にとって駐車場は「こんなになくてもいいのに」と通りすがりに思うぐらいに無縁な、よそよそしい存在である。

 ではなぜこんなに繰り返さなければならないほど、駐車場が気になっているのか?発表当時さまざまな解釈を呼んだ箇所だが、先に述べた直太朗の特質から考えて駐車場は文字通り駐車場だというほどの意味しかないだろう。しかし駐車場が「別れ話」の行われた場所(公園?遊園地?店?)や「騒がし」い駅前とは異なる、無機質なコンクリート敷きの空間であることは想像できる。そもそも駐車場とは、何らかの施設を利用するため車を停めるための空間である。語り手は街を歩く時、彼女がいた昨日までは「君」といっしょに行く店や場所を探していただろう。彼女と別れて初めて、駐車場の無機質な空間が意識に表れて来たのだ。ここでは空間認識における図と地の反転が起きている。

 

風景の発見と孤独の発明

明日は朝からアルバイト 夜の予定は特にない
百年経ったら世界中 たぶんほとんど駐車場

どこもかしこも駐車場だね どこもかしこも駐車場だよ
どこもかしこも駐車場だわ どこもかしこも駐車場だぜ
どこもかしこも駐車場 そろそろ火星に帰りたい

 

 心を揺さぶらざれるを得ないハーモニカの間奏を経て歌い出される3番、「夜の予定は特にない」の箇所で語り手は一瞬感傷を覗かせかける。しかし凡百のJ-POPであれば「だから君を思って歌うよ」とでも続けそうな瞬間に、直太朗は鮮やかに駐車場の話題に戻ってみせる。世界中が駐車場で覆われるイメージはエントロピーの増大と無機的な物の勝利を意味し、「百年経ったら」語り手自身は当然死んでいるため、この一節は二重に死と絡まっている。そして語り手は人間のいない不毛の地である火星を思い浮かべ、そこを虚構の故郷として「帰りたい」とまで思うのだ。「君」という安息の場所を失った語り手にとって、故郷は決定的に喪失されている。

 「どこもかしこも駐車場」のPVをYouTubeで視聴することができるが、上野公園の不忍池で歌う直太朗の周りを行きかう人々はみな一様にスマートフォンの画面を見ながら歩いている。おそらく昨日までの語り手も彼らの一人だったにちがいない。失恋によって「君」との、そして社会とのつながりを失ってしまった語り手は、そこで初めて顔をスマホ画面から上げ、周囲の風景を見回して駐車場の多さに驚いたのだろう。「君」につながっていない、荒涼とした「ただの風景」を発見した語り手は、同時に「ただの自分」をも発見している。火星にしか故郷を求められないような孤独の中から、この歌は生み出されたのだ。