『マグノリア』の断片と統一

 現代は断片の時代だ。芸術家は誰でも、断片に憧れる。鮮烈な強度を持ち、周囲の文脈から浮上する断片。断片だけで作品ができるならどれだけいいだろう。そんな思いだけからできあがってしまったように思える芸術作品も存在する。

 しかし、ただ断片を連ねることは、物語作者の仕事ではない。断片群はそのままではただの混沌である。いやしくも物語を語る者ならば、断片群を共通性という水平軸(空間)とストーリーラインという垂直軸(時間)の統一性で構成しなければならない。個人の内的発話をそのまま書き記す“意識の流れ”の手法を打ち出した20世紀初頭のモダニズム小説が、一方では登場人物たちの多くが異なる場所から目にするイベントを、他方では時間の流れを可視化するモチーフを持つのは偶然ではなく、構成上の要請のためだと考えることができる。ジョイス『ユリシーズ』でダブリンを練り歩く葬列やウルフ『ダロウェイ夫人』でロンドン上空に現れる飛行機雲は前者、フォークナー『響きと怒り』でのキャディーの変容や同じくフォークナー『死の床に横たわりて』の葬列の進行は後者に当てはまる。  

 映画という芸術は、出自からして1秒24コマの断片からできている。そのため、「モンタージュ」などバラバラなショットを統一する技法への意識も早かった。しかし現代はもはや、統一の時代ではない。各個人が断片的な生活を送るさまをショットごとに描写しながら、スケッチ的な断片をどのように統一感を持つ映画に仕上げるか。この課題を完全に成し遂げた監督として、ロバート・アルトマンの名を挙げることができる(特に空間を限定した『ナッシュビル』と『ウエディング』は傑作である)。アルトマンを深く尊敬する現代の物語作者ポール・トーマス・アンダーソン(以下PTA)は、『マグノリア』(1999)において、①ロサンゼルスを舞台とし、②終盤に登場人物をつなぐ大事件が起きる、③群像映画というアルトマンの『ショート・カッツ』を容易に想起させる映画を撮ってみせた。しかしながら、PTAは真のアイロニーの人であったアルトマンとは異なる特質を持っており、構成にいくつかの特徴がある。これから『マグノリア』を題材に断片と統一の問題を探っていきたい。

 『マグノリア』を見た観客が好んで話題にするのが、「なんでカエルが降ってくるの?」という疑問である。映画の終盤20分で起きるカエルの豪雨は、何のために起こるのか。映画外の、つまり作者の見地から見れば、答えは明らかだろう。「共通経験をもたらし、バラバラの登場人物たちをつなぐため」だ。しかし、『ショート・カッツ』の終盤で無邪気に大地震を起こしてみせたアルトマンの豪放さと異なり、PTAはもう少し慎重な手段を取っている。

 注意して見ると、登場人物を共通経験という水平軸でつなぐモチーフは、カエルだけではない。一つ目は、テレビ番組だ。名物司会者ジミー・ゲイター(フィリップ・ベイカー・ホール)司会のクイズ番組「What Do Kids Know?」は天才少年スタンリー(ジェレミー・ブラックマン)が出演し、死の床にある製作者アール・パートリッジ(ジェイソン・ロバーズ)が出資している。過去にはドニー・スミス(ウィリアム・H・メイシー)がこの番組でクイズ少年として名を馳せ、現在もバーのテレビ画面で見ているし、父ジミーを嫌う娘クローディア(メローラ・ウォルターズ)も父の番組を見ている。そしてテレビにはフランク・T・J・マッキー(トム・クルーズ)のCMも流れている。このように、同じ内容を離れた場所にいる異なる人々に共時的に体験させるテレビは、作品内で人々を知らずしてつなげる働きをしている。

 二つ目に、映画中盤で主要人物全員がエイミー・マン「Wise up」をリレーして歌うまるでミュージカル映画のような場面(名場面)がある。「それは終わらない / 君が賢くなるまでは」と印象的に繰り返されるこの歌は、置かれた境遇は違えど賢く生きられずもがく登場人物一人ひとりの心情を代弁し、作品に共時性と統一性を与えている。  

 このように共通経験を用意したPTAだが、これで十分とは判断しなかったようだ。彼は、垂直軸のストーリーラインにもいくつかの仕掛けを用意し、映画を縫い合わせている。第一に、狂言回しとしての黒人の少年。彼は序盤で警官のジム・カーリングジョン・C・ライリー)に付きまとって殺人事件の手がかりを与えようとラップを披露し、中盤でジムの落とした拳銃を盗み、終盤で気絶しているリンダ・パートリッジ(ジュリアン・ムーア)の車に乗り込んで彼女を助けるかと思いきや窃盗を働いて逃げるという縦横無尽の活躍を見せている。詳しく描かれていないが、黒人女性マーシーのクローゼットにあった死体の件や、最後にジムの元に帰ってくる拳銃の件にも、この少年が裏で関わっているのだろう。彼の存在により、観客は断片群の背後に進行するストーリーらしきものを想像することができる。

 第二に、「82」という数字。カエルの雨に関わる記述は『出エジプト記(Exodus)』8章2節が出典だが、PTAはカエルに至るまでの部分で、まるでそれを出しておけば後でムチャをする免罪符になるかのように画面に「82」を溢れさせている。絞首刑になった三人の囚人の話(以下逸話1と呼ぶ)で囚人の胸につける番号が82、消火活動のため飛行機からダイバーが落とされ死んだ話(以下逸話2)で飛行機の番号が82。ブラックジャックで飛行士が望むカードが2、ダイバーが渡すカードが8。奇妙な自殺の話(以下逸話3)で博士の報告が始まるのが8時20分、屋上から飛び降りる青年の足元にあるロープの形が82、夫婦の部屋番号が682。現在時制の部分では、最初に予報される降水確率が82パーセント。ジムの私書箱のナンバーが8-2。「What Do Kids Know?」の客席で観客が振り回しすぐ取り上げられるプラカードの文字が「Exodus82」、など。クイズ解答者として「数字と牛乳なら任せてくれ」と豪語していたルイス・グスマン氏ならこれらの数字にさぞ喜ぶことだろう。これら時間をおいて出現する「82」は、作品内の「暗合」をもたらす符牒として、序詞のようにクライマックスのカエルの雨を導く機能を担わされている。ジミーが番組冒頭で言っているように、われわれが「信じようと信じまいと(believe it or not)」。

 第三に、「偶然(chance)」の強調。窓の外に降りしきるカエルを見てもまったく動揺せず、達観したように「This is something that happens.」とつぶやき続けるスタンリー少年を、われわれ観客が異常と思わないのはなぜなのか。それは間違いなく、冒頭に語られる3つの挿話とナレーションのみで登場する語り手の効果である。詳しく見ていこう。

 挿話1は、「グリーン・ベイカー・ヒル」という場所で犯罪を行った三人がグリーンとベイカーとヒルだったという話で、作品のタイトルがMagnolia streetという場所を指していることも暗示している。語り手は「I would like to think this was only the matter of chance.」と「偶然の問題」として片づけている。

 挿話2は、山火事のため飛行機で池から水をくみ上げて消火活動したら潜っていたダイバーも落としてしまった、しかも飛行士とダイバーは二日前にカジノで会っていたという話で、池にいるはずのカエルが空から降ってくる伏線になっている。語り手は「And I am trying to think this was all only a matter of chance.」と、先ほどより弱い姿勢ではあるが、これも「偶然の問題」と位置付ける。

 挿話3は、屋上から飛び降り自殺しようとした息子を三階下で夫婦喧嘩していて偶然撃ってしまった母の話で、「家族の困難さ」という全編を覆うテーマが早くも浮上している。そしてこの誰が見ても偶然と思える事件に対して、語り手は突然判断をひるがえすのだ。「This was not just a matter of chance. No. These strange things happen all the time.」 ここには、起こった出来事がstrangeだという認識とともに、挿話1・挿話2と異なって「起こったことは偶然ではない=起こるべくして起きた」という感覚がある。語り手が判断を変えたのはなぜか。それは母が持っていた銃に、弾を込めたのが飛び降りた息子本人だったからである。息子は親同士が喧嘩するのに耐えかね、殺しあえばいいと望んで弾を込めた。奇想天外な自殺に至ったのはstrangeである。しかし、そもそもの原因は家族の不和であり、何かが起きたのは偶然ではない。家族の問題に関して、語り手の判断はシビアである。

 以上の認識をもとに、カエルの雨を見てみよう。そうすると意外なほどに、「カエルのせいで運命が変わった」という登場人物がいないことに気づく。余命いくばくもなかったアールは息子フランクの前で息を引き取る。ジミーは自殺を果たせず、銃が暴発して事故死する。リンダを運んでいた救急車は横転するが、彼女は一命を取りとめる。ドニーは盗んだ金を職場の金庫に返しに行こうとする途中で落ちるが、結局ジムといっしょに返しに行く。これらの出来事は、過去に原因があり、起こるべくして起きている(「われわれが過去を捨てても、過去はわれわれを捨てはしない」)。カエルの雨というstrange thingsは起こったが、それぞれの結果は偶然ではない。語り手が冒頭に提示した世界観によって、映画は最終的な統一性を得ている。

  共通経験という水平軸と時間継起という垂直軸。二つを軸として、『マグノリア』の断片群を統一するのは「家族の困難さ/愛の困難さ」というテーマだ。ラストシーンでクローディアが見せる突然の笑顔は、作品がジムとクローディアの間に生まれた愛を祝福している表れと考えられる。このことと、ジムとクローディアが作品内で唯一「平等に向かい合って座る」ことのできる男女(彼らはテーブルのちょうど真ん中で唇を合わせさえする!)であることは大きな関係がある。

 アールとジミーという作品内の「父」は、どちらも他人に向き合って座ることをしない。アールは病人であり常に寝ていて、リンダが添い寝しても顔を向けたり会話したりしない。ジミーは司会者という仕事が象徴するように常に「立っている」人物だ。娘のクローディアの部屋を訪れた時「座っていいか?」と尋ねても拒否され、彼は座らせてもらえない。逆の立場になった時、番組の司会者としてスタンリーを解答者席に座らせることもまたできない。彼が座るのは向き合う場所に相手のいない控室と自宅の二回だけだが、後者では妻の「クローディアにさわったの?」という質問に向き合えないのを示すかのようにソファにもたれ、アールとそっくりの寝た姿勢になっている。後はただ、収録中発作を起こした時と銃の暴発で死ぬ時の二度、くずおれるように倒れるのを許されるだけだ。

 フランクはどうか?「Seduce and Destroy」などという男性至上主義・女性蔑視のマニュアルを書く教祖だから望みは最初から低いが、インタビューの席で黒人女性グエノヴィアと一応向かい合って座りはする。しかし母に関するデリケートな質問が彼の逆鱗に触れるや、後半はただ彼女をjudgeし、沈黙して時間稼ぎしていた。インタビュー直後のスピーチで「Men are shit.」と発言して信者を動揺させたり死の床のアールに本音をぶちまけたりして一日で少なからぬ変化を遂げたフランクが、一命を取りとめ病院のベッドに横たわるリンダとどのような会話をするのか、それは観客の想像に任されている。

 ジムは、最初通報を受けて急行したマーシーの家で彼女を座らせることができず、結局手錠で縛り付け銃で脅すことになる。この点、フランクの「Tame the cunt.」を地で行く、女性をねじ伏せて征服する行為だ。ところが、同じように通報を受けて行ったクローディアの家では、ジムは彼女と向き合って座り、コーヒーを楽しみ、デートに誘ってもう一度向き合って座りさえする。死体の第一発見者であるにも関わらず捜査に関する会話にも入れないジム、男性性の象徴である警棒も拳銃も落としてしまうジム。彼が、向かい合って座ることのできる女性クローディアを見つけsaveする未来に、作品は少なからぬ希望を託しているようだ。

  ちなみに、信じようと信じまいと、『マグノリア』のエンディングでエイミー・マンが「Save me」を歌い終わるのは、開始から182分の時点である。こうした奇妙なことは起こるのだ。