新作小説時評(1)

四次元的小説ー『銀河鉄道の夜


 宮沢賢治の新作『銀河鉄道の夜』は、三次元の現実を超えて行こうとする小説の力を感じる作品だった。冒頭の教室の場面で、ジョバンニの先生は星座の図の「ぼんやりと白いもの」について次のように生徒達に語る。

 

「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つの一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にあたるわけです。またこれを巨きな乳の流れと考えるならもっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かに浮かんでいる脂油の球にあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと云いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽も地球もやっぱりそのなかに浮んでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。」(一「午后の授業」)

 

 俯瞰で語りながら、いつの間にかその内側にいる。この作品はそうした外と内のふとした貫通に満ちている。物を凝視していくうち、いつしか物はそのありようを変え、見る者を物の中に引きずりこんでいく。「いちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したものでだまって見ていると何だかその中へ吸い込まれてしまうような気がするのでした」(九「ジョバンニの切符」)と描かれる切符や、「その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってものぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛む」銀河のまっくらな孔=石炭袋は、作品の原理を表す「物」たちである。ジョバンニは丘の草に横たわり銀河を見つめている場面から、気がつくと直前まで見つめていたはずの天の川を走る鉄道に乗り込んでいる。

 

「それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のように考えられて仕方なかったのです。」(五「天気輪の柱」)

気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。」(六「銀河ステーション」)

 

 ここでは「三次空間」での因果律はもはや機能していない。「こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思いました。そして二人は、前のあの河原を通り、改札口の電燈がだんだん大きくなって、間もなく二人は、もとの車室の席に座って、いま行って来た方を、窓から見ていました。」(七「北十字とプリオシン海岸」)のような奇妙な文章が平然とつづられる。銀河は、「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか。」と問うジョバンニに「どうしてって、来ようとしたから来たんです。」という鳥捕りの答えに象徴される、意志が媒介や障害なくそのまま透明に現実になる空間である。それはまた文学空間でもあると、作品は語っているようだ。

 現実では級友のザネリ達に「お父さんから、らっこの上着が来るよ。」と父の服役をからかわれたり、「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を」「何べんも眼を拭いながら」拾う労働で銀貨一枚を得たり、社会という関係の網目の中で生きているジョバンニだが、銀河では親友カムパネルラとの純粋化された友情を育むことに没頭できる。その体験は「すぐお父さんの書斎から巨きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒なページいっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見た」(一「午后の授業」)日の再来のように、ジョバンニに感じられたはずだ。

 

 作品におけるカムパネルラの第一声は「みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった。」(六「銀河ステーション」)であり、友人達特にザネリは排除され、ジョバンニに「(そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)」と幸福な錯覚を起こさせている。また「水筒」も「スケッチ帳」も忘れてきたのに「構わない」と言うカムパネルラは、彼が持つ黒曜石の地図とともに実用性中心の社会から断絶されていることを宣言している。列車が進むうち乗り込んでは話しかけてくる個性的な乗客達は、ジョバンニとカムパネルラが二人でいることを阻害しつつも、かえって二人の関係を強める役割を果たしている。鳥捕りを邪魔と思いつつも「僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったろう。」「ああ、僕もそう思っているよ。」と鳥捕りの喪失を二人で嘆き、「ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行く人はないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談しているし僕はほんとうにつらいなあ。」と他の乗客の介在を嫌い、女の子達が降りたとたん「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。」「うん。僕だってそうだ。」と二人で絆を確認することで、二者関係は純粋化されてゆく。しかし、四次元の銀河を走る鉄道に乗ることでジョバンニが理解したのは、現実という三次空間を離れてさえも、純粋な二者関係が不可能であるということではないか。

 どういうことだろうか。ジョバンニが鉄道に乗ってすぐ、カムパネルラは「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」(七「北十字とプリオシン海岸」)と切り出す。ジョバンニは自分の母を病気のまま地球に残していることを思い出すが、カムパネルラには「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」という鈍感な反応しかできない。そして旅の終わり近く、先ほど引用した「どこまでもどこまでもいっしょに行こう。」「うん。僕だってそうだ。」という会話の直後、ジョバンニは「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」と投げかける。カムパネルラは「僕わからない。」と返すのみなのだが、これはジョバンニに「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」と言われた後とまったく同じ答えである。どれほど解り合える同士でも、家族や幸福という切実な問題には「君の気持わかる」ではなく「わからない」という答えを返すことがもっとも誠実な態度である局面が、必ずある。互いに自らの信じる価値を理解させようとしたジョバンニと家庭教師の青年の「ほんとうの神さま」をめぐる対話がすれ違いに行き着くほかなかったように。そしてカムパネルラが「あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのはぼくのお母さんだよ。」と指し示す先に、ジョバンニは「ぼんやり白くけむっているばかり」のものしか見ることができない。それは冒頭の「ぼんやりと白いもの」に似ているが、天の川のように先生の科学的解説を聞いて他人が了解することを許さない何物かなのだ。

 

「「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえってみましたらその今までカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかり光っていました。」(九「ジョバンニの切符」)

 

 カムパネルラはこの時点で「現実」には死んでいるため、実は作品中の「現実」で一言も発することなく、ジョバンニの前からも読者の前からも姿を消してしまう。しかもカムパネルラの死はジョバンニが嫌っているザネリの生を贖うためのものだったことが後で明かされ、「僕たち一緒に行こうねえ」というジョバンニの呼びかけは宙に浮いたまま終わっている。カムパネルラの喪失を機に、ジョバンニは現実の諸関係から切り離されていた四次元の銀河から醒め、「一さんに丘を走って下りて」三次元の現実に下降してゆく。母親のための牛乳という、現実の必要を思い出したためだ。

 ではジョバンニの見た幻想は、相互理解に至らないカムパネルラとの銀河の旅は、無意味だったのか。丘で体を横たえなどせず、「川へははいらないでね。」という母の言い伝えをジョバンニが早くカムパネルラに伝えていれば、あるいはカムパネルラは命を落とさずに済んだのかもしれない。しかし作品は、カムパネルラの行動も、ジョバンニの未行動も、ともに肯定している。白鳥の停車場でカムパネルラがつまんだ砂、「中で小さな火が燃えている」と言った水晶の粒のように、あるいは大学士が発掘する百二十万年前のボスの化石のように、カムパネルラが散らした命も、不在でありながら燐光を発し、ジョバンニに力を与え続けるだろう。「もういろいろなことで胸がいっぱいで」「もう一目散に河原を街の方へ」走っていくジョバンニが、これからどのように生きるのか、背中を見送る読者にはわからない。しかし、四次元の銀河で「僕はもうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。」と決意したこと、その時カムパネルラという名の友と一緒だったことを、ジョバンニは「三次現実」を生きる中で折々思い出すだろう。それはこの、「まるで粟粒くらいの活字」が銀河のように散らばった四次元的小説を旅した後現実に帰還していく読者も同じなのだ。

 

参考文献

見田宗介宮沢賢治 ー存在の祭りの中へ』(岩波書店1984年)

千葉一幹『賢治を探せ』(講談社選書メチエ、2003年)

押野武志セカイ系文学の系譜―宮沢賢治からゼロ年代へ」(押野武志編著『日本サブカルチャーを読む』北海道大学出版会、2015年. 所収)