僕たちの失敗―『高校教師』論

 生物準備室、昼休み。結婚生活の難しさを自嘲的に語った新庄徹(赤井秀和)に、羽村隆夫(真田広之)が生物学の知識で応じる些細な場面がある(『高校教師』第3話「同性愛」)。

 

羽村「知ってますか?カマキリの共食いの話。」

新庄「ああ、あの雌が雄食ういうやつ?」

羽村「交尾の前、雌は隙あらば雄を食べようとします。まず頭を噛み切ってそれから食べ始めるんです。」

新庄「ん?あの、交尾の後やないの?」

羽村「フフッ。頭がなくても雄の性行為は止まりません。つまり、昆虫の頭は抑制中枢神経の座にあるので、雌は頭を食べることで性行為を活発化することができるんですね。」

 

 この場面は何のために設けられているのか?第1話、羽村の家で二宮繭(桜井幸子)に語られる月のかけらといつか空を飛ぶ人類の話、第2話で二度語られ、婚約者との疎隔と繭との親和を視聴者に印象付けるペンギンの話、それら印象的なエピソードの再演に過ぎないのか?引用した会話の直後の「経験の裏づけのない、知識だけですけどね」という台詞が象徴する、羽村のユーモラスな変人ぶりを演出するシーンか?あるいは繭を愛すことで理性を失ってゆく羽村自身の運命を暗示しているのだろうか?

 そうではない。いや、むしろそのどれもが正解だが、強調されるべきはここで脚本家野島伸司が明確にある書物を参照しているということだ。その記述は動物の「利己的」な行動例の二番目に挙げられている。

 

「いっそうよく知られている例に、雌のカマキリのおそろしい共食いがある。カマキリは大形の肉食性の昆虫である。彼らはふつうハエのような小形の昆虫を食べるが、動くものならほとんどなんでも攻撃する。交尾のさいには、雄は注意ぶかく雌にしのびより、上にのって交尾する。雌はチャンスがありしだい雄を食べようとする。雄が近づいていくときか、上に乗った直後か、はなれたあとかに、まず頭を咬み切って食べはじめる。雌は交尾の終わってから雄を食べはじめるほうがよさそうに思われよう。けれど、頭がないことは、雌の体ののこりの部分の性的行為の進行を止めることにはならないようである。じっさい、昆虫の頭は抑制中枢神経の座であるので、雌は雄の頭を食べることによって、雄の性行為を活発化することができる。」(ドーキンス利己的な遺伝子』p.21-22)

 

 羽村の台詞と引用部末尾の文章が語句の選択を含めて同一であるのがわかる。リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子』(原著1976年)が、『生物=生存機械論』(邦訳1980年)から改題され「科学選書」の一冊として紀伊國屋書店から刊行されたのが1991年。いま手元にあるのと同じ赤白二色の表紙は、第2話で羽村が駅のホームで立ち読みしている場面ではっきりと確認できるから、作中の時間を『高校教師』が放映された1993年として、羽村は生物学の研究者としての興味からドーキンスの主著を読んでいたのだろう。そもそも羽村は、その職業も明確にされない時点で既に、荷物の中身を改めた駅員に「『利己的な遺伝子』?ずいぶん難しそうな本読んでるんだね」(第1話)と話しかけられる存在として視聴者の前に立ち現れるのであり、また婚約者にペンギンの話を披露した後も「まあそこが、リチャード・ドーキンスの指摘する利己的な遺伝子、というわけなんです」(第2話)と付け加えていて、早い時期から『利己的な遺伝子』とのインターテクスチュアリティーは強調されていた。しかしそれでも冒頭の場面が感銘深いのは、野島伸司が実際にこの本(の少なくとも一部)を読んでいたことが証明されるからだ。

 よく知られるように、ドーキンスは動物界の「利他行動」を、遺伝子を搭載した機械としての個体が取りうる最適戦略の一つとして記述しセンセーションを巻き起こした。例えば性的なパートナーシップは「相互不信と相互搾取の関係」に他ならない。

「求愛の儀式に際して、雄はしばしばかなりの量の婚前投資を行うことがある。これは家庭第一の雄を選ぶ戦略の一形態とも考えられる。雌は、交尾に応ずる前に雄が子供に対して多量の投資をするようにしむけ、そのため交尾後の雄はもはや妻子を棄てても何の利益も得られないようにしてしまうことができるのではないだろうか」(p.239)

 ドーキンスの本が話題を呼んだのは、上の引用が代表するように、動物を叙述しながらもそれが人間の比喩とも受け取れる巧妙な文章に理由がある。羽村によれば「普遍的な愛なんてものは、進化の過程においては、何の意味も持たないと言われているんだよ。生物学者は、ある意味で皆そう思ってる。全ての遺伝子が利己的であるという説が正しければ、生き物は皆本質的に孤独なんだ。こうして集う水鳥も…人間だって」(第5話)。しかし、ドーキンスの立論を読んだ野島伸司は、動物と人間は異なる、と感じたのではないか。"愛の名の下に"人間が取る行動は、遺伝子の戦略や計算など超えている、と。『高校教師』は反『利己的な遺伝子』である。藤村知樹京本政樹)は語る―「人間はね、本気で人を愛すると狂いますよ。理性やモラルなんて、何の歯止めにもなりません…例外なく人間はね」(第10話)。動物なら例外なく、狂いなどしないのだ。

 『高校教師』の世界は、半分だけドーキンスと似通った世界だ。『高校教師』は自らの「物語」にしがみつきその承認を求め闘い合う個人たちの記録である。しかし後の半分は、人間的な、あまりに人間的な次元に属している。自らの「物語」とは調和することのない他者に、にも関わらず愛ゆえに深くコミットしていく人間の。本稿では以下、男性キャラクターの視点を中心にこの問題を考察していく。

 

 意外なことに『高校教師』には暴力としての暴力は存在しない。暴力は自らの信じていた「物語」を守るための防衛反応として現れる、きわめて観念的な存在である。近代社会の本質を「承認をめぐる闘争」と看破したのはヘーゲルであったが、第5話の羽村と彼の兄との格闘は「物語」同士の対立が暴力となって現れている良い例である。羽村の突然の婚約解消と高校教師への転身を、弟を大学教授にさせるべく郷里で農業を営み援助してきた身として不満に思う兄に、羽村は初め静かに語り始める。

 

羽村「兄ちゃんは偉いよ。いつも言うことは正しいさ。だけど、兄ちゃんの方こそ…自分、ごまかしてきたんでねえべや?」

兄「俺はおまんとは違う。」

羽村「自分のやりたいことがあったのに、それをば隠してたでねか?結婚相手だって、親の言いなりじゃなきゃあ?自分の夢俺に背負わせて、んで親の面倒ば見てますって被害者面すんのはやめてくりゃえ!」

兄「もう一度言ってみろ。」

羽村「兄ちゃんはなぁ、俺に嫉妬してたのさ。親父は俺のこと可愛がるって嫉妬してたのさ。それなのに親父の面倒だとか、俺に仕送りしてるとかそういう歪んだ自己満足に浸って生きてんのさ。…悲劇の主人公ぶって、同情されてえのは、自分じゃねえかよ!」

兄(羽村を殴り)「お前なんかに農家の長男の気持ちがわかるか!やりたいことやりに、好きなことやりに東京出てった人間にな!」

羽村「やりてえことがあったら、家出でも何でもしりゃよかったねえか!」

兄(再び殴り)「能書きばっか覚えやがって!」

 

 以下本格的な殴り合いに発展するが、長々と引用してしたのは羽村と兄が互いの「物語」の欺瞞を暴き合うさまがあまりに見事に描写されているからだ(全体から見て台詞自体は少ないとはいえ、この羽村と兄の場面、新庄と彼の子の場面は非常に感動的である)。この兄弟の対立自体は、直後のバス停のシーンで「教養ないスケ、あげな言い方しか出来なかったどもな」と言う兄の晴れ晴れした笑顔で和解に導かれるが、しかし二つの「物語」を本質的に調停することはできない。他者を自己の「物語」に従えて統御すること、その最もグロテスクな例が藤村による相沢直子(持田真樹)の強姦である。藤村の行使した「暴力」は性的欲望ではなく(いわば)「物語」的欲望に発しており、だからこそ藤村は自らの犯罪を隠蔽しようと真剣に努力していない。藤村は「恋人ができましてね」と羽村に語り、「男性がその性的に充足すべき対象を求めると現代では一様に低年齢化する」(第4話)と得意げに論じる。新庄の自宅の前で直子を車に寄せつつ大音量のクラクションを鳴らす時の藤村は、「直子は自分を愛する恋人である」という物語に酔い、それを誇示して周囲に承認させようと欲していたのではないだろうか。犯罪の証拠となるビデオテープを突き付けられてもなお「中を見たんでしょ?野蛮とは心外だな…綺麗に撮れてる」「僕は何も悪いことしてないのに」等と口走る藤村はほとんど観念の狂気の世界に足を踏み入れている。「殴ったりして悪かったね…けど、君が僕に対して従順でいてくれないからだよ。僕はただ…君に愛して欲しいだけなんだよ」(第9話)。しかし新庄には藤村の「物語」は「狂っとるわ」としか感じられない。「新庄=信条」・徹、という名を与えられた彼は、「教師は優れた人間であるべき」という信条(「俺は教師である前に人間じゃ!」)に徹するため藤村を許せず、直子を殴った藤村に暴力を加えて失職する。

 かくまでに「物語」の防衛は死活問題である。主人公羽村とて例外でなく、作品前半の彼は「春には結婚して研究室に戻る」と自分にも周囲にも言い聞かせ続け、繭に婚約者が他の男といたことを教えられそうになると「やめろ!言うな!それ以上言うな!…言わないでくれ。俺は何も聴かない。何も見なかったんだ。」(第3話)と、繭の報告と直接関係のない、病院で窃視した光景も含めて否認しようとする。浮気の事実を知ってなお結婚式の招待状を発送し続けるが、「私はあなたが考えているような、箱入りのお人形さんタイプじゃないの」「あんなとこ見て、見ぬふりしようとするなんて」(第4話)と婚約者その人に、父である教授からは「君は何か勘違いをしているようだね。研究室に空きはないんだ」(第4話)と結婚・学問双方の「物語」の欺瞞を暴露されてしまう。「僕は何もかも失ってしまった…」という羽村の述懐には、依るべき「物語」を失った個人の悲痛さがある。羽村が繭を心から求め始めたのはこの時だ。

 

羽村の語り「あの時君は、いつまでもそばにいて、一緒に泣いてくれたんだね。こんなちっぽけで弱虫な僕のために…。」

 

 この部分を岡田恵和脚本の『夢のカリフォルニア』第5話と比較してみたい。山崎終(堂本剛)が就職活動の面接官に人格を否定され、自殺未遂とも思える事故で入院、そこに山崎家の家族と二人の女友達、麻生恵子(国仲涼子)と大場琴美(柴咲コウ)が迎えに来る、という場面。

 

終の語り「僕はうれしかった。一番会いたいと思っていた人が来てくれて、僕が必要だと言ってくれた。それが、うれしかったんだ。二人の手は、あったかかった。」

 

 いずれも主人公が絶望的状況にある所を周囲が共に悲しんでくれることで救われる、という心情を表現するモノローグであるが、野島・岡田両者の特質がはっきりと出ている。岡田恵和作品には必ずと言っていいほど主人公を取り巻く(『めぞん一刻』的な)中間共同体が登場し、男女共に含むほとんど拡大家族と称すべき親密圏(『ビーチボーイズ』・『ちゅらさん』・『泣くな、はらちゃん』)を構成する。(『夢のカリフォルニア』の場合、終の親友二人はいずれも異性に設定されているから一層前景化されるが)この親密圏は原則恋愛とは別次元の論理で作動しており、異性愛はあってもあくまで「複数の中の二人」として扱われる。上の引用で「一番会いたいと思っていた人」が何の説明もなく「二人」であって一人ではないのは、岡田作品では当然なのである。それに対して野島作品の「僕たち」は二人でしかあり得ず、他の者を排除する。言い換えれば、岡田作品では主人公の親密圏が社会親和的であり、野島作品では極めて反社会的である。

 『夢のカリフォルニア』で終は家族の来訪も嬉しがっており、また家族は恵子と琴美を信頼し気を利かせて終を預けその場を外す。このような風通しの良い家族のあり方も、「お前がいなければダメなんだ」(第3話)と床に伏せて娘に懇願し、「その男はお前を本気で愛してなどいない。それは、その男自身が気づいているはずだ」(第10話)と留守電にまで羽村への罵倒を吹き込む、繭の父・二宮耕介の娘に執着する姿とあまりに対照的だ。同じく山田太一を尊敬する両脚本家の分岐は興味深く、また北川悦吏子を二人の間に置くことで、『ふぞろいの林檎たち』から現代に発展したテーマの振幅を近似することができるであろう。

 

 『高校教師』に登場する主要な女子生徒は繭と直子の二人のみであり、実はこの二人以外は恋愛対象としては次々と脱落していく(独身の女教師、教育実習生、新庄の元妻)。これはリアリティーに欠けるように思えるが、制作サイドとしては「教師と生徒の禁断の愛」という話題性を狙いたい事情とともに、脚本家としては「教師と生徒」「父と娘」のように禁忌を設定することで、男性登場人物の「物語」に女性が「他者」としてどう関わるのか、というテーマを純粋化したかったという理由があると考えられる。主要登場人物の範列構造は以下である。

 

上位価値

羽村隆夫

 

新庄 徹

 

 

二宮 繭

 

相沢直子

 

下位価値

二宮耕介

 

藤村知樹

 

 

 この表はいろいろと興味深い情報を含んでいる。上位価値を視聴者に肯定的に、下位価値は否定的に受け取られると想定されるキャラクターの属性とすると、表を横に読めば上段の人物は女子生徒に信頼され、下段の人物は遠ざけられつつ求められている。表を縦に読めば、右列の男性は何だかんだで生き延びているのに比べ、左列の男性は命を失うかそれが強く暗示されている。これは繭の方が直子よりも「他者」としての強度が強いことと関係すると思われる(何かを不可視の内部に秘めた「繭」と、苦境にも負けず頑張る「直」子の対比)。

 また対角線の関係(対偶)も重要である。新庄と二宮は、ともに最終的には女性の前から自らの意志で姿を消す―新庄のように「忘れろ。俺のこともや。」と警告してか、二宮のように繭を去らせた後にそのままでも死ぬ所に自ら火をつけるか、演出の度合いの違いはあれ。彼らは破滅はしつつも自らの視界から他者を抹消することで、実は自らの「物語」を守り切ったとも言える。最終回で羽村が自首しようとするのを、新庄が二宮の自殺する意思を忖度して止めるのも不思議ではない(二宮耕介の焼身自殺は新庄の別離の拡大された比喩である)。もちろん「物語」の防衛は臆病を意味するものではなく、事実新庄は作品中唯一倫理的に賞賛され得る人物である。

 しかしながら、ドラマの人物として輝くのは、当然自らの「物語」を「他者」としての異性に突き崩される登場人物である。羽村―藤村の対角線はこの系列をなし、あらゆる意味で藤村は羽村の陰画である。例えば彼らはイニシャルH. Tを共有し、共に女生徒の肌に痕跡を残す原因となっている(藤村は直子を殴打し、羽村は塩酸をかけられて庇った繭の手首にあざを残す)。上下の位置の違いから、藤村がもたらした痕跡は新庄を激昂させる引き金となるのみだが、羽村による痕跡は繭に二人の絆の象徴として愛おしく思われ(形成外科で治ると医師に言われたのに治療していないためそう推定される)、羽村自身も旅館で二人になった時、繭のこのあざに接吻する。

 それでは二人の「物語」の結末を見てみよう。藤村は新庄との一件を経ても、病院に見舞いに来た直子に対して「君も僕を愛してはくれなかったんだ!女なんてみんなそうだ!」と、自らの「直子は自分を愛してくれる」という物語に拠った、独善的な発言しかできない。直子の返答、「先生…女の子はもっとちゃんと好きになるよ。男より、ずっと真剣にしてるよ」(第10話)の前に、象徴的にも転倒して松葉杖を失う藤村は起き上がることすらできず、実質的に作品から退場する。

 では羽村はどうだろうか。近親相姦の事実を知ってしまった後の羽村にとって、繭はもはや「羽村の知る繭」ではなく、「ほんとうの繭」すなわち「他者」である。この「繭」像の二重化は、作品の序盤から羽村の靴箱に入れられていた「助けて」のメッセージの書き手が繭であり、羽村と身体を重ねてからもずっと羽村に秘密のまま投函していたことが明らかになるという、ドラマの時間性を最大限に利用した演出によって、鮮烈に印象付けられる。自身置き手紙に「あたし、先生と普通の恋がしたかった。…バカだねあたし、自分はちっとも普通じゃなかったのにね」(第10話)と後になって書いているように、繭は絶対的なアウトサイダー、単独者である。

 ここで羽村は「他者」である繭とのコミュニケーションを諦めて自らの「物語」に撤退することもできたし、そうすることが道義的でない態度だとは誰にも言えない。しかし羽村はコミットメントを選ぶのだ。羽村は二宮家から繭を連れ出す時、「僕は…彼女の教師です」と言えばよかった。にもかかわらず彼は「僕は…彼女を愛しています」と二宮耕介に告げてしまう。

 

羽村の語り「生まれて初めて”愛してる”という言葉を口にした。ただ、あの時の僕は、一方で君に、まだ拭い切れない、嫌悪感を抱いていた…」(第9話)

 

 もはや羽村は「物語」の承認を求めてなどいない。むしろ嫌悪で「物語」が破砕されるかもしれなくとも、繭と関わろうとしている。後に彼が二宮耕介を刺す時の空ろな表情は、愛するという営みを本当には遂行した時人間はどうなるかを、その極限において示している。

 第10話での羽村は、かつてあれほど好んだ生物学の話題(「コオロギの順位制」についての論文)を、せがまれても話さない人間になっている。彼はおそらくどこかで、動物界と人間界のアナロジーが成り立たないことに、自らの人生を贖うことで気づいたのだろう。明らかに彼らは失敗した。しかし彼らはその失敗をもって、愛するとは本当には何かを開示している。視聴者にすぎないわれわれは画面の中の彼らに想像的にコミットすることで、われわれ自身が真に、動物とは異なった人間であることを確かめることができるのだ。われわれは羽村と繭の物語を目撃し、感情移入し、承認する。その意味では、彼らは闘争に勝利したのである。

 さて、「『高校教師』は反『利己的な遺伝子』である」とこの論は始められた。しかしドーキンスであれば、『高校教師』こそが『利己的な遺伝子』の正しい解釈だと言うかもしれない。末尾でドーキンスは、急に人間の独自性を謳歌するからだ。

「われわれは遺伝子機械として組立てられ、ミーム機械として教育されてきた。しかしわれわれには、これらの創造者には歯向かう力がある。この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである。」(p.321)

 遺伝子に反逆し、生物的に失敗することこそが、「僕たち」=われわれの成功なのかもしれない。