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総括2016年の文化(中編)

 2016年の夏はポケモンGOとリオオリンピックの夏でもあった。7月22日に日本でサービス開始されたポケモンGOは、スマートフォンの中の日常の風景に違和感なくポケモンを溶け込ませポケモン世代を熱狂させた。約1ヶ月後、8月21日のリオ五輪閉会式では逆に、実物の安倍首相がマンガやゲームの画面に入り込み、マリオとなって東京からリオまで駆けつけてみせた。USJのアトラクションであれPerfumeのライブであれ先端技術の作り出すリアリティーは現実と対立するものではなく、現実と共存する「拡張現実」を構成し、もはやわれわれの現実の一部となっている。

 

 この夏封切られた東宝映画作品『シン・ゴジラ』は、「ゴジラのいる東京」という拡張現実を先端技術で表現し得たことにより大成功した。映画館を後にしてなお、皇居を睨んだまま凍結しているゴジラをポケストップさながら東京駅丸の内口に幻視する者も多かっただろう。「完全生物」と再定義されたゴジラの荒唐無稽な強さに、観客は初代『ゴジラ』に怯えた60年前の人々のように真の恐怖を味わったが、それはCG・モーションキャプチャー・特撮を初めとする繊細な技術の裏付けがあったからだ。

 今回のゴジラの最大の特徴は第四形態まで「進化」を遂げていくことであり、またその過程がCGのコントロールにより現実の映像のようなリアリティーで迫ってくることだが、それは制御化で核反応を増大させていきエネルギーを取り出す原子力と類似する。「ゴジラは人類の存在を脅かす脅威であると同時に、無限の恩恵を示唆する福音でもあるということか」という矢口蘭堂のセリフもゴジラ原子力の比喩を強化している。

 

 しかし、進化するのはゴジラだけではない。ゴジラに対抗する政府側の質が、後半に進むにつれめざましく向上していくのだ。前半、大河内首相率いる内閣は「想定外」の事態に追われて何もできず、学者陣も与えられた入力に決まった出力しか返せない硬直ぶりを示す。大人数での会議も赤坂補佐官が言うように「結論ありきの既定路線」で何も新しいものを生み出せない。

 ところが、二回目の上陸で内閣首脳を乗せたヘリが撃墜され東京が破壊されてから、矢口主導の巨災対を中心として日本政府は見違えるように「進化」していく。フランスの圧力を通じて核爆弾投下へのカウントダウンを延期したのを見て、アメリカ人議員もヘリでカヨコ・アン・パターソンに「日本がこのような外交をするほどに成長したとは―。」と語るほどだ。巨災対は、牧教授の遺した「君らも好きにしろ」という原理で結束したような集団であり(森課長も立ち上げの時「まあ好きにやってくれ」と言っている)、そこでは専門分野を持つ各人がアイディアを話し、それが核反応のように次のアイディアを生んでいく。

 ここで賞揚されているのは、クリエイティビティーを有する個人が集まって起こすイノベーションだ。『シン・ゴジラ』の結末では、硬直した従来の政治手法でなくクリエイティブな労働こそがゴジラを凍結させる。

 

「気落ちは不要!国民を守るのが我々の仕事だ。攻撃だけが華じゃない。」

「礼は要りません。仕事ですから。」

「さあ仕事にかかろう!」

 

 このように、『シン・ゴジラ』には仕事に関わるセリフが多く存在する。しかし、「政治は敵か味方しかいない。シンプルだ。性に合ってる。」と語る矢口を真似ると、『シン・ゴジラ』には矢口の性に合わない仕事と性に合う仕事が描かれている。

 後者はもちろん、「ヤシオリ作戦」に収斂していくクリエイティブな労働=仕事だ。巨災対メンバーや外交に当たる里見首相代理・泉政調副会長ら政府の人間はもちろん、新幹線、米軍戦闘機、在来線、高層ビル、クレーン車といった物たちまでが、普段は考えられもしない=クリエイティブな役割を与えられ、危機回避に貢献する。

 前者は、巨災対が使った部屋を片付ける清掃夫やお茶を出してくれる掃除のおばちゃん、矢口の汚れたシャツをクリーニングする業者、そして何より大河内内閣下の官僚たちの行う「単純労働」だ。これらの労働は、多くは描かれすらせず、または描かれても映画全体の中で意味を与えられない「部分を構成しない部分」をなしている。矢口が「わが国の最大の力は、この現場にある」と演説する時、言葉の裏で「単純な」労働しか行えない労働者は現場にいる必要がないというメッセージを発しているのだ。 

 『シン・ゴジラ』は高い評価を獲得したが、作品を褒める者の口調にまで、「火力/原子力」「単純労働/クリエイティブな労働」の二分法的思考枠組が浸透してはいなかっただろうか。「前作までのゴジラゴジラ映画を単純に反復しているだけだったが、『シン・ゴジラ』は新しいアイディアと工夫に満ちていた真のゴジラ映画だ」、と。これがわれわれの現在である。そして、だからこそ『シン・ゴジラ』は2016年に生み出されたのだ。

 

 同じ夏、『シン・ゴジラ』から約1ヶ月遅れて公開され、瞬く間に興行収入を追い抜いてしまった作品がある。同じ東宝映画作品『君の名は。』だ。公開直前に安倍首相が地球の反対側でPRしたジャパニメーションの実力を示すように、新宿や飛騨地方の風景が本物と見まがう精緻さで描かれ、しかし決して写真にはないノスタルジーが画面に溢れている。デジタル技術が可能にした「拡張現実」のリアリティーは、映画内の出来事を単なるファンタジーにとどめず、われわれの世界の問題として意識させるのに十分だった。

 『君の名は。』で飛来するティアマト彗星は1200年周期で動いており、人間のスケールでは測れない存在であることが明らかにされている。主人公の瀧と三葉は二人で彗星墜落による糸守村民死亡という大災害を起こさないように努力するのだが、本来高校生の努力では何も対抗できないはずのカタストロフィーに対して、彼らに武器として与えられているのがアイデンティティーである。三葉は宮水家という巫女の血を引く者としてヒロインであり、彼女に東京で見初められた瀧は「見初められた」という一点のみでヒーローの有資格者となっている。そして彼らは時を超えて入れ替わるという特性を持ち、入れ替わりにより生じる時間差を利用して大災害を未然に防ぐ。

 不思議なのは、瀧と三葉が電車で出会ったから入れ替わるようになったのか、入れ替わるから三葉が瀧に会いに行ったのか、鶏が先か卵が先かの要領で決定不能になっていることだ。糸守の人々の死に関しても、そもそも大災害がなければ瀧が終盤口噛み酒を飲んで彗星墜落前の糸守に向かおうとするはずはなく矛盾が生じるという意味で、起こったのか起こっていないのか観客は最後まで決定できない。それは彼ら二人の記憶の中では起きており、新聞記事という公定の歴史では「全員避難」と報道される出来事なのだ。三浦玲一はカズオ・イシグロの小説を分析しながら歴史と記憶の違いを次のように述べている。

 

 端的にその違いをのべれば、歴史は、普遍性に開かれており、誰にとっても客観的な判断の対象となるもの、そして、それに対しては真偽判断が可能だと思考されるものである。対して、複数形の歴史もしくは記憶は、同じアイデンティティーを持つ者のみに開かれており、追体験することによってしかそれは正しく理解されることはなく、その追体験の対象としての記憶とは、その真偽を問うことに本質的な意味がないものである。(『村上春樹ポストモダン・ジャパン』p.61)

 

 大災害は起こったのか起こっていないのかという先ほどの問いに戻るならば、それは二人の「前前前世」でのみ起こったのだ。災害で命を落としていたはずの住民は、たまたま村に三葉がいたから、そして瀧と三葉が愛し合っていたから、避難に成功し偶然生きられることになった。しかし彼らは当然「自分たちは瀧と三葉のおかげで助かった」とは気づいていない。その功績もまた、二人の「前前前世」の中のみの話となる。二人の本当の価値は、二人にしかわからない。そして二人ともいつか互いの名も顔も記憶から消してしまう。

 『君の名は。』はアイデンティティー・モデルの自己実現を描くことで、クリエイティブ経済の典型となっている。周囲は気づいていないが、彼らは価値を持っている(何せ一つの村の住民すべてを救ったのだから)。三葉は自分が巫女であることをパッケージ化し宣伝すれば全国に口噛み酒を売り出せると妄想する。瀧はもう慣れ切ってしまったバイトのレストランを辞め、高校時代から興味を持って本を読んでいたクリエイティブな建築業界を志望し就職活動する。友達が内定を増やしていく中、スーツも似合わないし内定も取れていないが「人の心に残る風景を残したい」と強調することは忘れない。記憶の中の名も知らぬ彼女が、自分の価値を知ってくれているのだから。

 『君の名は。』は人の縁をつないでいく糸のイメージで満ちているが、同時にそれがどれだけ弱く細い糸かということも、都市と地方という対比を含めて描いている。安倍マリオが一瞬で通り抜けてみせたこの世界を、われわれは不可能な愛だけを救いとして生きるほかないのだ。ラストで瀧と三葉を出会わせたのは作り手の優しさだろうか批評精神だろうか。いくら飯田橋駅がリアルに描けていても描かれる出来事は彗星衝突や入れ替わり以上のファンタジーでしかない。映画館を後にしたティーンエイジャーが、まだ見ぬ君の名を求めて拡張された現実を生きるとすれば、われわれは彼に何か言葉をかける資格があるのだろうか?(つづく)