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匣はもう開いている ―『匣の中の失楽』論

 

【本稿には、『匣の中の失楽』の真相に触れた記述があります!未読の方は読了後お読み下さい。ページ数は講談社文庫『新装版 匣の中の失楽』に基づきます。】

 

 言語哲学ジョン・サールに「中国語の部屋」と題する奇妙な思考実験がある。人工知能を人間と見分ける、いわゆるチューリング・テストの応用形だ。窓のない部屋に中国語を解する中国人が閉じ込められており、もう一方のやはり窓のない部屋には中国語の会話をシミュレートする人工知能を持ったコンピューターが設置されている。人間であるあなたは部屋の外から中国語の質問を発し、語学運用能力がほぼ同等の応答を文字で双方から得る。さてこの時、あなたは応答のみからどちらが人間でどちらが人工知能か、正しく見分けることができるだろうか?

 

 サールは「外部の観察者の立場からすれば、形式的なプログラムを実現することによって、あたかも中国語を理解するように振る舞うことはできるが、にもかかわらず、中国語をひとことも理解してはいない。…コンピューターは統語論を持つけれども意味論は持たないのです。」(『心・脳・科学』)と原理を振りかざすことで自らの問いに性急に答えを出してしまう。しかし本当にサールの思考実験が不気味なのは、真に思考し理解している人間と「人間らしさ」を模倣しているだけのプログラムを、「外部の観察者」が弁別できないという点なのではないか。それは章ごとにリアリティーの水準が入れ替わり、生身の人間が生きている「現実」と、名前だけが同じの「人形」にすぎない「小説」の、文字情報だけを受け取る外部の「読者」にはどちらがどちらであるか容易に判定できない『匣の中の失楽』の不気味さと通底している。『匣の中の失楽』が図地反転的な構造を持っていることは、小説中の人物が自己言及的に指摘してもいる。

 

 「ハハン、しかし、実際には何も知らない読者としてこの小説を読むなら、それこそこの小説に描かれたふたつのストーリーのどちらが現実か、という点から考えねばならんことになるぜ」

  すかさず布瀬がまぜっかえすと、思わず羽仁もつられたように、

 「だけど、布瀬。実際のことを何も知らない読者なら、片方が現実に忠実に描かれていることも知らない訳だから、どっちが現実の出来事か、なんてことは考える筈がないよ」

 「いやいや、そんなふうに誤解してもらうと困るな。吾輩の今言った現実とは、飽くまで小説上の現実ということだぜ。考えてみれば判ることだ。見知らぬ読者がこの小説を読んだ場合、一体どちらのストーリーが現実だろうと考えるのは、ごくごく自然な気持ちではないかね」(四章、p.469)

 

 布瀬の示唆にならい、「小説上の現実」を確定する作業に取りかかるとしよう。知られるように、『匣の中の失楽』の構成は次のようなものである。不吉な序章に続き一章で曳間了が死ぬ事件が起き、しかし二章では登場人物が(これまで読者が読んできた)序章・一章をナイルズの小説『いかにして密室は作られたか』として読み終える描写で始まる。一章で「死んだ」曳間もコメントを加えさえする。二章の続きでは真沼寛が密室から消失するが、三章内では二章までの小説が朗読され、曳間はやはり死んでいて真沼消失は起きていない。この交代劇が五章まで続き、一章ごとに「現実」と「小説」が反転していく構成を取っている。

 このため、現在までこの作品を論じるにあたって、「一章・三章・五章」の系列と「二章・四章」の系列を立て、いずれが「現実」でいずれが小説か、という形で問題を立てる組み立てが主流となっている。またこの際、最終的な(=ミステリー的な)謎解きがなされているように見える五章を「現実」と捉え、遡行して一章・三章を「現実」と確定する手続きが取られやすい。しかし、「奇数章は現実、偶数章は小説」という形で不連続線を発見する性急な二分法に対して、筆者はここでささやかな異議を差し挟みたい。(未完)