『明暗』&『暗夜行路』論

偶然と運命のキアロスクーロ

 

 

 『明暗』と『暗夜行路』、近代日本文学を代表する二つの大作の微妙な関係は、ある程度漱石と志賀の関係の微妙さを反映している。『暗夜行路』完結後の「あとがき」を志賀は、自分が連載するはずの長篇が思うように書けず漱石に詫びた(このため『こころ』の「先生の遺書」が長大化することになる)という二十五年も前のエピソードから書き起こしている。

「私の出すべき長篇小説の空地はその頃の私位の若い連中の中篇小説幾篇かで埋める事になったが、義理堅い夏目さんに迷惑をかけた事を大変済まない事に感じ、何時かいい物を書いて、朝日新聞に出そうと思ったのが、他にも理由はあったが、それから四年程何も作品を発表できなかった原因の一つであった。その四年間にも私は未完成の長篇[=『時任謙作』]を時々書き続けようとし、それが出来るまでは別の短篇を書いても他の雑誌へ出すことは遠慮しようと思っていたのだ。ところがその間に夏目さんは亡くなられた。」(『暗夜行路』新潮文庫版、p.516-517)

 

 そうした経緯ののちに『暗夜行路』を連載し始めた時、志賀の頭の内に『明暗』への意識がなかったとは想像しにくい。そして後篇に至っては「妻の不義」という漱石的主題まで導入し、最後の場面を医者の術式を受ける男性主人公という、『明暗』が始まった場面で締めくくってみせたのである。

 しかし志賀が執筆時に実際に意識していたかどうかは重要ではないかもしれない。重要なのは、その相似性のためにいっそう、両作家の資質の違いが各々の最大長篇に際立って表出していることだろう。例えば『暗夜行路』前篇の「或る彼はもっと突き進みたがっている。然し他の彼がそれを怖れた。愛子との事で受けた彼の傷手は未だ、彼には生々しかった。」(p.57)や後篇の「君の云う事に間違いはない。然し僕としてはそれは最も不得手な事だからね。それと仮令直子に罪がなかったとは云え、僕達の関係から云えば今まで全然なかったもの、或いは生涯ないとしていたものが、出来た点で、今までの夫婦関係を別に組み変える必要があるような気がするんだ。極端なことを云えば仮に再び同じことが起っても動かないような関係を。―」(p.435)という箇所は、必要な変更を加えれば『明暗』の抽象的な文章のただ中に置くことができよう。だが、

 

「ヤイ、馬鹿」

仔山羊は美味そうにその葉を食った。揉むように下顎だけを横に動かしていると、葉は段々と吸い込まれるように口へ入って行った。一つの葉が脣から隠れると謙作は又次の葉をやった。仔山羊は立った儘の姿勢で口だけを動かし、さも満足らしく食っている。謙作はそれを見ている内に昨夜来自分から擦抜けて行った気分を完全に取り戻したような気がした。彼は一寸快活な気分になって、

「さあ、お仕舞だ」と云って、両の掌に仔山羊の小さい頭を挟んでぐいと胸へ引き寄せた。(p.36)

 

といった素晴らしい一節における謙作の「気分」の描写は、漱石の後期作品群を『彼岸過迄』まで遡らないと見出し得ないものである。この「仔山羊」は筋の展開から要請されたディテールではなく、またその点にこそ「気分」の描写の成否が賭けられている。

「要するに自分は不幸な人間ではないと謙作は考えた。自分は全くの我儘者である。自分は自分の思う通りをしようとしている。それを人は許して呉れる。自分は自分の境遇によって傷つけられたかも知れない、然しそれは全部ではない、それ以上に自分は人々から愛されていたのだ。」(p.273)

 謙作は小説のある時点でこのような気分に浸るが、『暗夜行路』では著者が語るように「外的な事件の発展よりも、事件によって主人公の気持が動く、その気持の中の発展」(p.521)、すなわち「気分」の変遷が描かれていれば、極論「それでよい」のだ(題名の”行路”が象徴しているように)。上の謙作の述懐は、著者による『暗夜行路』へのメタコメンタリーともなっている。

 

 

 では『明暗』はいかなる作品か。これは連載二回目にして張られた伏線、「何うして彼の女は彼所へ嫁に行つたのだらう」という津田の独白を全編かけて回収しようとしている小説である。にも関わらずその回収が遅延(「彼の女」の名が「清子」と判明するのすら「百三十七」)されたあげく宙吊り(清子は「百八十五」でようやく台詞を発するが、作品は「百八十八」で途絶)にされてしまう異様な小説でもある。遅延と宙吊りのメカニズムは作品のデザインにも影を落としていて、人物同士の対話が何節をも跨ぎ、地の文の注釈によって引き伸ばされ、決定的なアクションの発生に至る前に次の場面へと移行していく。謙作をほぼ全編の視点人物とし、結末部(および、要との関係が回想される後篇第五章)を除けば妻直子に視点を譲らない暗夜行路とは異なり、『明暗』では津田の妻お延の心理も彼女の視点で精緻に解剖され、そのため一層出来事に対する叙述が長くなっている。次の一節は『明暗』の基本原理を象徴している。

 

 お延は久し振に結婚以前の津田を見た。婚約当時の記憶が彼女の胸に蘇へつた。

「夫は変つてるんぢやなかつた。やつぱり昔の人だつたんだ」

斯う思つたお延の満足は、津田を窮地から救ふに充分であつた。暴風雨にならうとして、なり損ねた波瀾は漸く収まつた。けれども事前の夫婦は、もう事後の夫婦ではなかつた。彼等は何時の間にか吾知らず相互の関係を変へてゐた。

波瀾の収まると共に、津田は悟つた。

「畢竟女は慰撫し易いものである」

彼は一場の風波が彼に齎した此自信を抱いてひそかに喜んだ。[…](「百五十」)

 

ここで津田のお延に対する認識面での優位を読み取るのは後回しにして(それはいつ逆転するかわからない)、まずは津田とお延の視点が同等の分量で並置されることで醸し出される「説話論的な睦まじさ」(渡部直己『日本小説技術史』p.272)に注目せねばならない。『明暗』という題がすでに示唆する二極構造で貫かれた本作において、お延は完璧に津田のカウンターパートをこなし得ているのだ。実際津田-お延を中軸に、秀子-継子、藤井家-岡本家、はシンメトリーをなして配置されており、それを上層階級の吉川夫人と下層階級の小林が挟み込む、堅牢な構造を小説は実現している。圧巻はもちろんお秀が病院の津田を見舞いお延の扱いをめぐって口論している部分に続く「お秀が斯う云ひかけた時、病室の襖がすうと開いた。さうして蒼白い顔をしたお延の姿が突然二人の前に現はれた」(「百二」)とそれを受けてのお延視点による出来事の再構成である。このように一つの視点を常に相手側の視点によって相対化し、さらには吉川夫人の干渉・小林の批判にもさらすことによって、限られた登場人物数で「社会」の多層性を表現しようというのがおそらくは漱石の方策であった。直接は相対峙しない吉川夫人-小林の縦軸と常に角突き合わす津田-お延の横軸で張られたグリッドの中で登場人物達が互いの目を意識し合うゲームは、阪口ら男友達との交友とお栄ら家族との関係が独立に進行する『暗夜行路』には全く見られなかった。家族制度も『明暗』の中では、「己達は父母から独立したただの女として他人の娘を眺めたことは未だ嘗てない。だから何処のお嬢さんを拝見しても、そのお嬢さんには、父母といふ所有者がちやんと食つ付いてるんだ。だからいくら惚れたくつても惚れられなくなる義理ぢやないか。」(「三十一」)という藤井の叔父の言葉に端的に読み取れるように、小説家によって「社会」の開始点として機能的に活用されているのだ。

 

 以上の帰結として、『明暗』はすべての心理が表面に浮上し読者の目に映ずる、表層が大きな意味を有する作品となった(「津田は其微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室に帰つた。」という一文で終わっているのは、偶然とはいえ本作にふさわしい)。全知の三人称視点で叙述される『明暗』の明るく均質な作品内空間は、冒頭に一人称で語られた「序詞(主人公の追憶)」を有し、それが後に「謙作は自分の事を彼方へ打明ける一つの方法として、自伝的な小説を書いてもいいと考えた。然しこの計画は結局この長篇の序詞に『主人公の追憶』として掲げられた部分だけで中止されたが[…]」(p.275)のように登場人物にすぎない謙作と作者である志賀を重ね合わさせるための「表現機構」(安藤宏)として機能している、『暗夜行路』の不均質な作品空間と対照的である。但し『明暗』が「近代小説」的かというとそうでもなくて、作品内の劇場や酒場が「公共圏」として機能することなく病室や津田の邸宅と同じく既知の人物同士が対話する場所にしかなっていない点には注意が必要であり(富山太佳夫「近代小説、どこが?」)、むしろ『暗夜行路』の娼家や寺院の方が多様な人間が出入りしており「社会」を描けていると評価できるのかもしれないが。

 

 現実とは独立に緊密に構築された『明暗』の小宇宙と、世界に開かれた『暗夜行路』の緩やかに構成された作品世界。最後にこの問題を整理しておきたい。既に引用した独白の直前、『明暗』の津田は友人に紹介されたポアンカレーの「偶然」の理論を想起している。

 

「だから君、普通世間で偶然だ偶然だといふ、所謂偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎて一寸見当が付かない時に云ふのだね。」(「二」)

 

 漱石は『明暗』の小宇宙の中で登場人物同士を原子のようにぶつけその相互作用による「偶然の出来事」を演出しているように思われる。九鬼周造によれば「偶然」とは「例えば病人の見舞に行くとしまして、その病人に遇うことは偶然ではない。わざわざ遇いに行ったのですから偶然ではない。然しそこへ見舞に来合わせた誰それに、思いがけず、遇うことは偶然です。[…]すなわち必ず遇うにきまっていない、遇うことも遇わないこともできるような遇い方をするのが偶然であります。」(「偶然と運命」1937年)と説明しているが、これはまさに『明暗』のためにあるような一節ではあるまいか。

 

 単に病院でお秀に出会うといふ事は、お延に取って意外でも何でもなかつた。けれども出会つた結果からいふと、又意外以上の意外に帰着した。自分に対するお秀の態度を平生から心得てゐた彼女も、まさか斯んな場面で其相手にならうとは思はなかつた。相手になつた後でも、それが偶然の廻り合わせのように解釈されるだけであつた。その必然性を認めるために、過去の因果を跡付けて見ようといふ気さへ起こらなかつた。(「百十一」)

 

 登場人物にとっての偶然の衝突が読者の視点では起こるべくして起こった”必然”としか思われない所に、『明暗』を読む歓びがある。シンメトリーの均衡を食い破るお秀のお延に対する反抗、吉川夫人に使嗾されての津田の温泉行き、それらの「偶然」の累積がもたらすカタルシスをもはや読者が見届けることは叶わないので、涙を呑んで『暗夜行路』に目を移すと、ここでは「運命」の槌音が謙作が祖父の子であることを明かす「序詞」から大山での終曲まで通奏低音として鳴り響いていることがわかる。

 

誰からも本統に愛されていると云ふ信念を持てない謙作は、僅かな記憶をたどって、矢張り亡き母を慕っていた。その母も実は彼にそう優しい母ではなかったが、それでも彼はその愛情を疑うことはできなかった。[…]実際母が今でも猶生きていたら、それ程彼にとって有難い母であるかどうかわからなかった。然しそれが今は亡き人であるだけに彼には益々偶像化されて行くのであった。(p.57-58)

 

直子は急に眼を堅く閉じ、首を曲げ、息をつめて顔中を皺にした。そしてそれを両手で被うと、いきなり突伏し、声をあげて烈しく泣き出した。[…]彼は直子のこの様子を、どう判断していいかと先ず思った。次に彼は兎に角自分達の上に恐ろしい事が降りかかって来た事を明らかに意識した。(p.421)

 

「謙作は母の場合でも直子の場合でも不貞というより寧ろ過失と云いたいようなものが如何に人々に祟ったか。自分の場合でいえば今日までの生涯はそれに祟られ通して来たようなものだった。」(p.493)と後に繋げて整理されているが、『暗夜行路』は構成が緩く物事の連関が少ないために、読者は謙作が運命もしくは宿命のように感じているものを個々の偶然に切り分けて読むことができる。謙作には出来事は世界の側から到来し続け、「運命とは偶然の内面化されたものである」(九鬼周造)の公理に従って、彼はそれを生きる。

 そこまで考えれば、「おれは今この夢見たやうなものの続きを辿らうとしてゐる。東京を発つ前から、もつと几帳面に云へば、吉川夫人に此温泉行を勧められない前から、いやもつと深く突き込んで云へば、お延と結婚する前から、―それでもまだ云ひ足りない、実は突然清子に背中を向けられたその刹那から、自分はもう既にこの夢のやうなものに祟られているのだ[…]―すべて朦朧たる事実から受ける此感じは、自分が此所まで運んで来た宿命の象徴ぢやないだらうか」(百七十一)と内省する津田と謙作との距離、「ただ自分で斯うと思ひ込んだ人を愛するのよ。さうして是非其人に自分を愛させるのよ」(七十二)と叫ぶお延と「助かるにしろ、助からぬにしろ、兎に角、自分はこの人を離れず、何所までもこの人に随いて行くのだ」(514頁)と思う直子との距離が、意外なほど近いことにも思い至らないだろうか。対照的な両作品の人物造形における「偶然」の類似は、日本近代小説の「運命」を思索させるには十分である。