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B級映画は君に語りかける(1) ―『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)と結合の力学

 

  お前がかつていたところに戻るんだ ー The Beatles, "Get Back"

       ただ結びつけることさえすればー  ― E. M. Forster, Howards End

 

 この映画はマックスの独白から始まる。「Once I was a cop.」 そう聞いた瞬間、観客の脳裏には『マッドマックス』(1979)のメル・ギブソンの勇姿がよみがえるだろう。車に押し潰される娘のフラッシュバックも、1作目の暴走族に轢かれ死んだ幼い息子を大枠で反復する。そう、本作は30年ぶりに帰ってきたマックス・ロカタンスキーの冒険譚なのだ。寡黙なはずのマックスの独白は、過去シリーズのメル・ギブソンと本作のトム・ハーディーをつなぎ、同一性を確保する役割を果たしている。

 『怒りのデス・ロード』の世界は厳密な作用・反作用の法則が支配する世界だ。冒頭のシークエンスでマックスは逃亡を図りクレーンのような鉤に飛び移るが、振り子の反動で戻ってきてしまいウォーボーイズに捕まる。"人食い男爵"の兵士は棒高跳びのように棒を振り子に使って相手車両に乗り込む。イモータン・ジョーの本拠シタデルはさまざまな部分が鎖でつながれ、滑車を使ったリフトまで備えている。ぬかるみにはまって動けないウォータンクは、ウィンチを木にくくりつけて張力を得ることで脱出することができる。観客に向かって飛び出してくるギターはバンドの張力で奥に戻る。本作の画面に漲るダイナミックな興奮は、この力動的な世界観にも要因があろう。この世界で崇拝されているのは、個々の力の算術的総和をはるかに超えた力を出すもの2つ、V8エンジンとイモータン・ジョーである。

 圧倒的な力を持つがゆえにイモータン・ジョーは人々を束縛し、所有物(property)として支配する。マックスは手錠と口枷をかけられる。乳母は乳房をつながれ母乳を搾取される。妻たちには貞操帯を付けさせ金庫のような一室に閉じ込める。「We are not things.」と落書きして脱走した妻たちとフュリオサをジョーが必死になって追うのも、愛憎のためというより妻たちとお腹の中にいる子をシタデルにつなぎとめるためだ。ここでは「つなぐ」モチーフがすべて支配と従属のコロラリーとなっている。ちょうどウォーボーイズたちが最初にした行動の一つが、ウォータンクに燃料用車両を「つなぐ」ことだったように。

 マックスがニュークスにつながれたのも、当初は「血液袋」としての使用価値のためでしかなかった。マックスは気絶したニュークスの手を吹き飛ばして鎖を外そうとするが銃が不発、嫌々ニュークスを担いでいくことになる。しかしつながれた身どうし文字通り運命共同体としてフュリオサ&妻たちと戦い協力して銃を組み立てた時(名シーンの一つ)、鎖は支配-従属とは別の協働性を表象している。同じことはマックスとフュリオサにも言える。当初は銃で支配されたり交換条件を提示されたりでやむなく共に行動していた。が、二人で協力して峡谷を突破したりマックスの肩を支えにフュリオサがライフルを撃ったり(またも名シーン)する中で共闘関係が形成されていく。最後にはマックスが自分の意志でフュリオサにシタデルに戻る作戦を提案して握手し、また瀕死のフュリオサに自らを血液袋として「つなぐ」までになるのだ。「血液をつなぐ管」のモチーフは、スプレンディドとお腹の子をつなぐへその緒(イモータン付きの医師に捨てられる)にも表れる。『怒りのデス・ロード』の主人公たちの間には、イモータン・ジョーと周囲の間の権力的な関係とは異なる、共同的な関係が生まれている。

 技法面でも同じことが言える。編集という、シーン間の結合に着目してみよう。本作の編集には人物と人物の視線のイマジナリーラインを遵守する「切り返し」が多用されている。例えばフュリオサがウォータンクでウォーボーイズを蹴散らしていく時、運転席のフュリオサのカットの次に轢かれる側のウォーボーイズの表情や視線のカットが割り当てられる。作品世界のルールが作用ー反作用の力学であれば、それを観客に見せるルールが切り返しだ。そしてカットの連接は視線のドラマを生む。マックスとフュリオサは、「血液袋」時代車の先頭にくくりつけられていたマックスが偶然フュリオサと目が合って以来、クライマックスでのガラス越しの切り返しやラストシーンに至るまで何回も視線を切り返し合う。妻たちについても、マックスをスプレンディドが助け、そのために撃たれそうになる彼女の無事を運転席からマックスが確認して親指を立てるシーンの切り返しは、後にスプレンディドの死が続くだけにいっそうエモーショナルだ(スプレンディドが轢かれるシーンはマックスのフラッシュバックでの娘の表情と重なるが、そもそも冒頭のマックスの幻想シーンも切り返しで撮られていた)。

 しかしイモータン・ジョーは、自分の背中に粉をふきかけるウォーボーイズや遥か下から自分を双眼鏡で捉える民衆に対して視線を返そうとしない。出だしでフュリオサを追いかけるニュークスはジョーが見てくれたと思い"He looked at me in the eye!"と有頂天になるが錯覚にすぎなかった(ジョーは後にフュリオサの"Do you remember me?"の問いかけをまさに"in the eye"で見返すことになる)。ニュークスは当時血液袋にすぎなかったマックスにすらも"Witness me, Blood bag!"と呼びかける、見返されることに飢えていた人物である。『怒りのデス・ロード』は"I am awaited."と盲信しながら"Witness me(俺を見ろ)"と孤独に死ぬことを夢想していたニュークスが、現実の仲間たちに視線を切り返してもらいながら幸せな最期を迎える映画なのだ。

 フュリオサが昔いた故郷を目指して飛び出した物語は、振り子のように現在のシタデルに帰還する場面で終わる。ヒーローとしての役割を終えたマックスは、一度フュリオサの視線を受け止めてうなずき、民衆の中に消えていく。その視線の結合はお互いを支配するものでなく、お互いを解放することで新たに結びつけるものだ。ラストシーンの切り返しのフュリオサの表情に観客は、『マッドマックス2』でマックスを見送る少年や『マッドマックス/サンダードーム』の女支配者の残像を見ることができる。しかしそれだけではない。30年間の空白を挟んだ過去の支配を超えてシリーズを結合するという偉業を成し遂げた『怒りのデス・ロード』は、今まさに未だ撮られざる新たな「マッドマックス」シリーズに向けて開かれたところだ。