第8回天上天下唯我独奇書読書会開催のお知らせ

こんばんはみなさん、Nicoです。この年末、半年以上のお休みを経て奇書読書会が帰ってきます!今回読むのは、「人は奇書を読むことはできない。再読することもできない。」という本読みの胸にしみる名言を残したあの作家の、今年いよいよ翻訳された大作です。

 

日時:2017年12月28日(木)17:00~20:00

  (※変更しています!ご注意ください。)

場所:新宿三丁目 軽食・喫茶「らんぶる」地下席

課題奇書:ウラジーミル・ナボコフ『アーダ[新訳版]』上・下(若島正訳、早川書房

 

「ア。アー。アーダ。」のあまりにも有名な書き出しに導かれ、突如挿入される「テラ」をめぐる999行の詩篇に惑わされ、紙背に潜む注釈者の影に脅えながら、ともにこのとてつもない小説を語りましょう。

 

今回初めて参加される方は、Twitterで@bachelor_keatonまでご連絡を。

ここに書きたいもっと、もっと多くのものがありますが、当日までお楽しみに。

 

Nico

City of Words of the Dead

序論

「僕は知るべきすべてを知っている / 僕はジョージ・ロメロからすべてを学んだんだ

 ダリオ・アルジェントトム・サヴィーニスチュアート・ゴードンサム・ライミからも」

 ― Sprites「George Romero

 

 映画はその誕生時から、白と黒との境界線を主戦場にするメディアだった。地である背景から図である人物をいかに浮き立たせるか。白黒二色の濃淡のみで世界を捉えざるを得ない初期の映画作家は、執拗に去来するこの課題と向き合わざるを得なかった。その結果、ほとんど偶然の産物として彼らが発見したのは、現在までハリウッド映画を規定する 「内部/外部の争い」という主題である。

 アメリカ映画の父と名指されるD.W.グリフィスは、代表作『国民の創生(The Birth of a Nation)』(1915)において「内部/外部の争い」を模範的な形でショットの連鎖に構成することに成功した。南北戦争リンカーン暗殺など近代アメリカの様々な歴史的事件にふれる叙事詩的大作のラストは、荒野の中の小屋(cabin)の中に隠れるフィル・ストーンマン(エルマー・クリフトン)や婚約者マーガレット・キャメロン(ミリアム・クーパー)らのキャメロン一家と、彼らを捕らえに荒野から迫りくる黒人達との撃ち合い、そしてフィル達を救いに大挙して駆け付けるKKK、という図式が主になっている。テーブルを倒し支えにすることでドアを死守しようとするフィル達の努力も空しく、黒人達は窓からドアから手を入れ頭を入れ内部に押し入ってくる。もはやこれまで、と思われた矢先、白装束のKKKが馬に乗って駆け付け、小屋の境界は保たれる。『国民の創生』が「ハッピーエンド」の映画として終わることが意味しているのは、小屋の境界がそのまま、内部の者は国民(nation)であり/外部の者はそうではないことを意味する境界になっていることだ。

 後にハリウッドに渡りサイレント末期のアメリカ映画界を代表する傑作を撮ることになるF.W.ムルナウは、ドイツ時代の『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)において境界の主題を映像化している。ブラム・ストーカー『ドラキュラ』を原作とするこの作品で最も印象深い場面は、ジョナサンの妻ニーナが寝室の窓から見える向かいの建物の多くの窓の一つにこちらを見据えるドラキュラ伯爵を幻視する場面だ。街ではペストが大流行しており、役所からは「窓を閉めるように」という布告が出され、サイレント映画のテロップとしても映し出されている。窓は安全/疫病の境界として機能している。にも関わらず、後にニーナは窓を大きく開け放ち、キリストのように両手を広げてドラキュラを迎え入れることになってしまう。

 1960年代以降初期アメリカ映画に顕著だった「内部/外部の争い」の主題を最も忠実に継承し、それによって実質的にアメリカ映画をもう一度復活させた映画作家ジョージ・A・ロメロである。彼のデビュー作 『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド1968)が、家に立てこもり窓やドアを密閉しようとする人間たちと境界を突破して外から迫りくるゾンビたちの死闘を描き、終幕で駆け付ける保安部隊によって黒人の主人公が銃殺されるという、『国民の創生』を反復した内容を持つことは偶然ではない。しかしそこで賭けられている境界はもはや「国民/国民でない者」を分かつ線ではなく、より根源的な 「人間/人間でない物」の境界である。「人間/人間でない物」の境界を探ることで人間の条件をあぶり出すことが、ロメロの生涯のテーマであった。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』でガラス窓としてわかりやすく表象できた境界は、『ドーン・オブ・ザ・デッド』(1978)ではショッピングモールのなめらかなアクリル板となり、『デイ・オブ・ザ・デッド』(1985)では境界を乗り越えるゾンビが現れる。三部作を通して境界の問題は深化し、ゼロ年代の三部作に結実していく。

 ロメロを「ゾンビ映画の父」と顕彰する向きがあるが、正確ではない。ゾンビの導入はもちろん素晴らしいアイディアであるが、ロメロの最大の功績は「内部/外部の争い」を特権的なジャンルとして立ち上げたことである。ほとんど独力でホラー映画とアクション映画の融合に成功したロメロは、「活劇の父」と呼ぶにふさわしい。ここで言う活劇とは、①登場人物たちが家など閉鎖空間に立てこもり、②外部から迫りくる敵と死闘を繰り広げ、③心理の帰趨と何ら関係なく銃による物理的な破壊のみが勝敗を左右する、アメリカ映画のジャンルである。私たちはそうした映画を見慣れているが、それはロメロ以前にはなかったものなのだ。

 ジョージ・A・ロメロは2017716日に永眠した。以下、ロメロの代表作を中心に論じられる各章は、「僕たちがロメロから学んだすべて」の偉大さを示すために書かれている。そして当然ながら、本書『シティー・オブ・ワーズ・オブ・ザ・デッド』は遠からず甦ってくれるだろうロメロ御大に捧げられる。

M/Gと大江のフットボールの物語-大江健三郎全小説全読書会②

大好評をいただきました第1回読書会から3か月、『大江健三郎全小説』第7巻配本(7/10)を記念して、第2回「大江健三郎全小説全読書会」を開催します(第1回読書会での議論をレポート化したものがブログにあるのでよければ過去の記事もご覧ください)。今後も各回配本に合わせて実施していく予定。今回は早くも名実ともに大江を代表する作品を読みます。大江ファン集まれ!
 
日時:  2017年9月30日(土) 11:00~ *前回と異なり、午前集合なのでお気をつけて。
場所:  名曲・珈琲「らんぶる」(東京メトロ新宿三丁目駅下車すぐ)  地下席
課題書:  『大江健三郎全小説第7巻』より『万延元年のフットボール』(1967年発表)
参加費:  飲食代のみ
 
なんらかの事情で『大江健三郎全小説第7巻』が入手できない場合、講談社文芸文庫版『万延元年のフットボール』等を読んできていただいてもかまいません。筒井康隆「万延元年のラグビー」とだけ間違えないように。
参加希望で初参加の方は、@bachelor_keatonまでご連絡下さい。では当日多くの方とフットボールできますことを期待しています。

叫べ、叫び続けよ ー大江健三郎全小説全読書会①

7月10日に『大江健三郎全小説』が第3巻から配本開始されるという歴史的事件を記念して、「大江健三郎全小説全読書会」を立ち上げます。今後も各回配本に合わせて実施していく予定。大江ファン集まれ!

日時: 2017年7月16日(日) 14:00~
場所: 名曲・珈琲「らんぶる」(東京メトロ新宿三丁目駅下車すぐ) 地下席
課題書: 『大江健三郎全小説第3巻』より『叫び声』(1963年発表)
参加費: 飲食代のみ

なんらかの事情で『大江健三郎全小説第3巻』が入手できない場合、講談社文芸文庫版『叫び声』等を読んできていただいてもかまいません。
参加希望の方は、@bachelor_keatonまでご連絡下さい。では当日多くの方と叫び声を共有できますことを期待しています。

新作小説時評 (2)

 

 山田詠美の新作「ベッドタイムアイズ」は、肌の柔らかさと金属の硬さが共存し、時に不協和をきたすありようを描いている。語り手キムは黒人兵が「黒い指の間にはちみつがしたたり落ちるかのように金色」(p.11)のグラスを持っている所を見て欲情を抱き、黒人兵のほうは「金色のチェーン」(p.12)を裸の胸につけ、さらに自らの金属性を強調するようにスプーンを持ち歩いて自分の名としている。キムがスプーンと恋に落ちるのは、何よりも硬さに性的に感応したためだ。

 

 偶然ポケットに触れた時、スプーンがビリヤード台の前で、しきりに愛撫していた例の物にぶつかる。それが金属であること、また日常、最も親しんでいる物であるのに気づいた時、私は体の芯にあれが来て、すべての感覚が麻痺してしまった。(p.14) 

 スプーンがポケットにスプーンを持ち歩いているのがなぜそんなに魅力的なのか、読者は疑問に思うべきではない。キムからスプーンへの最大の愛情表現が、ピアス(「チン、という澄んだ音」(p.69)で硬質性が表現されている)をジンで流して柔らかい胃の中に送り込むことで行われ、かわりにスプーンからキムへの愛情表現は硬い歯で左肩の肌に噛み跡を残すことで行われる、これはそんな作品なのである。愛や性とは硬さと柔らかさの配分の別名だ、と作者は考えているように思われる。スプーンの肉体は、日本人男性やマリア姉さんのストリップ小屋にひしめく「軟体動物」(p.18)の柔らかさと対比され、硬さや存在感を強調して描かれている。

 

 彼のディックは赤味のある白人のいやらしいコックとは似ても似つかず、日本人の頼りないプッシィの中に入らなければ自己主張できない幼く可哀相なものとも違っていた。海面をユラユラする海草のような日本人の陰毛は、いつも私の体にからまりそうな気がし恐怖感すら覚えてしまう。

 スプーンのヘアは肌の色と保護色になっているからか、ディック自身が存在感を持って私の目に映る。私は好物のスウィートなチョコレートバーと錯覚し、口の中が濡れて来るのを抑えることができない。流れ出る唾液は、すでに沸騰している。(p.13-14)

 

 しかし上の引用中にある「自己主張できない幼く可哀相なもの」とは、日本人男性一般だけでなくキム自身の自画像でもあり、「海草のような日本人の陰毛」に対する恐怖感は自己嫌悪の裏返しである。キムの使う「卒業証書をちょうだい」や「嵐の月曜日に登校拒否をしないで、浮き立った気分で学校に通えるキッズにすらなれそう」など学校に関係する語彙が象徴するように、キムは導いてくれる教師を求めて生きている「生徒」なのだ。

 

 私はマリア姉さんを見詰める。百年間、貯蔵庫に眠らせて置いた金色の酒を注いだようなトロリとした目をしている。私はいつもこの目に酔わされ自分の醜さを思い、自分の関った男を彼女の手に委ね、確認を頼み、自分を劣等生のように感じ安息を得た。彼女はかわいそうな捨て子の私の、絶対だったのだ。

 そしてスプーンと出会って以来、彼が私の絶対だった。私はいつも、あまりにも無知で海草のようにふらふら頼りなくて指導者を必要としていた。(p.61) 

 

 「かわいそう」で「頼りない」キムは、スプーンの硬さに愛されることによってのみ、その身を金属製のコルネットのように存在感あるものに仕立てられるのだ。「スプーン、私の唇をコルネットを吹くように吹かないで、プリーズ。」(p.51) ここでキムの意識に喚起されているのは2章前で言及されていた「ボールドウィンの小説の中のブラザー・ルーファス」だ(なぜか明言されていないがこの小説は『もう一つの国』であり、ルーファスは開始早々に自殺してしまう)。『もう一つの国』のルーファスが愛を語るためサキソフォンという楽器を必要とするのに対し、スプーンは硬さを持つ自らの肉体で語ることができる。

 

 小説の進行とともに変化する関係性の配分を見てみよう。キムの恋愛は、最初はスプーンに対し優越感を抱くことで始まる。「腐臭に近い、けれども決して不快ではなく、いや不快でないのではなく、汚い物に私が犯されることによって私自身が澄んだ物と気づかされるような、そんな匂い。彼の匂いは私に優越感を抱かせる。」(p.12-13) しかし二者の関係はすぐに変化し、スプーンはキムに「I’m gonna be your teacher.」(p.28)と上位の教師として振る舞い始め、キムも「私の体にはスプーンという刻印が押されているのは確かだった。」(p.51)と彼の自分に対する優越性を認める。そんな折、スプーンはマリア姉さんと肉体関係を持ち、キムは二人をマリア姉さんのマンションで発見することになる。

 

 海草のような長い髪の毛が彼の足の間に広がり、その間から金色に塗られた尖った爪が覗いていた。その髪はメドゥーサのように今にも一本一本が蛇になって蠢きそうにユラユラと揺れていた。

 マリア姉さんは静かに顔を上げた(p.58)

 

 「海草」のキムを導いていたマリア姉さんの、あまりにも急な「海草」への変貌!ほどなくキムは「愛しているのよ、キム」「ずっと前から愛していたのよ。あんたは私の執着した、ただ一つのものだったのよ」という衝撃的な告白を聞くことになる。ギリシャ神話のメドゥーサは、相手の目を見据える視線で生身の肉体を硬い石に変えるが、ペルセウスの持つ鏡の盾で自分の目を見ることによって自らをも石化させてしまう。本作では目(eyes)で相手を「見る」人物は、必ず相手に視線を返される。そして返された視線によって、メドゥーサが自分の醜い姿を知るのと同じように、自己認識の劇が始まる。

 

私はマリア姉さんを見詰める。百年間、貯蔵庫に眠らせて置いた金色の酒を注いだようなトロリとした目をしている。私はいつもこの目に酔わされ自分の醜さを思い、自分の関った男を彼女の手に委ね、確認を頼み、自分を劣等生のように感じ安息を得た。彼女はかわいそうな捨て子の私の、絶対だったのだ。

 そしてスプーンと出会って以来、彼が私の絶対だった。私はいつも、あまりにも無知で海草のようにふらふら頼りなくて指導者を必要としていた。

 彼女は私を見詰め返した。私は不思議なくらいに冷静だった。[中略]今、私は男を取られた女になっている。私はそう感じている。」(p.61-62)

 

 後の箇所、スプーンとキムとの視線の往復。

 

 スプーンは肘をついて私を監禁し、ゆっくりと目を開け獲物を見降ろした。[中略]「最後まで見届けろ。オレがお前の上に在るって事を」

泣きださずにはいられない。私は悟る。痛みと快感は酷似していると。スプーンを愛する事は私の心に傷をつける。[中略]

 「見るんだ」

 私は、見た。逃れられない。彼の瞳は私のすべてをものにする。(p.72-73)

 

 キムがマリア姉さんを愛していた時、マリア姉さんも実はキムを愛していた。キムはスプーンを「あんたは私の気持のよいシーツだ」と譬える一方、スプーンもキムを「ライナスの毛布」のように、そして「ふわふわして柔らかい」小さな頃飼っていた猫のように思っていた。いずれの場合も、相手が自分と対称的な認識を持っていたことは、キムの認識の埒外に当初あり、キムはそれを遅れをともなって認識する。生徒から見た教師像、教師から見た生徒像は、交点で微妙に交わって交錯している。生徒としてのキムは、彼我の認識に横たわる溝の存在を二人の教師から「学習」するのだ。「私という、ちっぽけな黒板」にスプーンが書いた数式「2 sweet + 2 be = 4 gotten」(p.92)(忘れ去られるには甘すぎる)を、別れの際に痛みを持って学習するのと同様に。キムがスプーンを忘れ去りなどできなかったことは数式より雄弁にこの小説が書かれていることが示しているし、手記の冒頭は認識の隙間の主題から始められている。

 

 スプーンは私をかわいがるのがとてもうまい。ただし、それは私の体を、であって、心では決して、ない。私もスプーンに抱かれる事は出来るのに抱いてあげることが出来ない。何度も試みたにもかかわらず。他の人は、どのようにして、この隙間を埋めているのか私は知りたかった。(p.9)

 

 性描写に着目しすぎるセンセーショナルな読み方では、例えば1985年ならともかく、現在ではこの小説の存在意義を示すことが難しい。「横須賀の基地」という固有名や米軍兵士との恋愛という設定のみを取り上げ、キムとスプーンの恋愛すべてを日米関係の比喩と見なそうとする時代錯誤な欲望にも注意が必要だ。日本人女性と黒人米兵の恋愛という設定、それはボールドウィンが『もう一つの国』を人種・国籍・セクシャリティーの異なる男女五人を中心に書いたのに似た、主題を浮き上がらせるための作者の苦心と見るべきだろう。虚心に読めば、「ベッドタイムアイズ」は柔らかさと硬さの関係性、自己と他者の認識の齟齬をめぐる論理的な小説である。キムとスプーンは隙間を抱えながらも二人で”もう一つの国”を築き上げる。しかしその領土は、スプーンのIDカードを「ジョゼフ・ジョンソン」の本名の下に管理する現実の国家機関の介入によって、あっけなく消滅してしまう。スプーンが去った後、キムに現実の認識が遅れをともなって訪れる。鋭敏すぎるほどの知覚とともに。

 

 そして、何日かたち、人間の感情が戻って来た時、私は冷蔵庫の中の肉が嫌な匂いをさせて腐りかかっているのに気付いた。それを捨てようとトラッシュ缶の蓋を開けた途端、気分が悪くなって吐いた。[中略]私はやっと思い出した。私はスプーンを失ったのだ。私はもうじき死ぬ病人のような呻き声を出して泣いた。スプーン、どこに行ったの?私は気が狂ったように部屋中をひっくり返してスプーンの残して行った形跡を捜し始めた。(p.96)

 

 シーツの染み、パナマ帽に残った髪の毛、食べかけのチョコレートチップクッキー…。今は不在となったスプーンの残滓を数え上げ喪に服する作業として、小説は書き始められた。今読者が読むこの記録は、「ジョゼフ・ジョンソン」ではない「スプーン」が真に存在した証、「もう一つの国」でのIDとなっているのだ。

 

参考文献

 山田詠美『ベッドタイムアイズ・指の戯れ・ジェシーの背骨』(新潮文庫

 大塚英志サブカルチャー文学論』(朝日新聞社、2004年)

 清水良典『デビュー小説論 新時代を創った作家たち』(講談社、2016年)

第7回天上天下唯我独奇書読書会開催のお知らせ

 がたん!

ーという一つの運命的な衝動を私たちに伝えて、その読書会の告知は開始した。

 

 えんたあ・えんたあ!

 へんかん・しふと・F6!

 えんたあ・えんたあ・えんたあ!

 

ふたたびタイトル。

「第7回天上天下唯我独奇書読書会―。」

 

 こんばんは、Nicoです。今回は昭和モダニズムの香りも高く、北海道は函館中学校で運命的にも先輩・後輩の関係だった2人の文章の魔術師を取り上げます。

 

日時:2017年5月5日(金・祝)14:00~17:00

場所:新宿「らんぶる」地下席

課題奇書:谷譲次『踊る地平線』(上・下)(岩波文庫 発表1929年)

     久生十蘭『魔都』(創元推理文庫、4/21発売予定 発表1938年)

 

 谷譲次林不忘の名義で時代劇史上に残るヒーロー丹下左膳を創造し、牧逸馬の名義では怪奇実話で世を震撼させた多才の人。『踊る地平線』はアメリカ体験記「めりけんじゃっぷ」物で知られていた譲次が天衣無縫な文体で描いたヨーロッパ旅行記で、織田裕二主演のあのドラマにも影響を与えていること間違いなし!「事件は旅行先で起きてるんだ!」

 その後輩久生十蘭は、「作家にとっての作家」と呼ぶにふさわしい技巧的な名文家です。かつて奇書読書会で取り上げた中井英夫が偏愛したことで知られ、『虚無への供物』の探偵役・奈々村久生のネーミングの由来ともなりました。特に『魔都』は昭和九年大晦日~翌昭和十年元旦の帝都東京に巻き起こる怪事件をタイムリミットサスペンスで描いた十蘭の最高傑作で、ほぼレインボーブリッジを封鎖せよ!です。今回、『新青年』連載時の初出から装いも新たにもうすぐ文庫化されるということで、創元推理文庫版を指定させていただきました。(すでに出版されている、奇書ファン御用達のレーベル『日本探偵小説全集8 久生十蘭集』にも『魔都』は収録されているので、そちらを読んで来ていただいてもかまいません。←※3/30追記: これは大ウソでしたごめんなさい!(笑) 『久生十蘭集』には「湖畔」「ハムレット」「顎十郎捕物帖」など代表作が収録されてますが『魔都』はなし。朝日文芸文庫版『魔都 久生十蘭コレクション』をお探しくださいm(__)m)


 今回はぜひみんなでこの2人をいっしょに読みたい!と思ったので2作品になってしまいました。時間の取れない方はどちらかを読了していただければ楽しめる会にしたいと思います。でもでも、「いやいやヒマでしょうがない、もっと奇書読ませてよNicoちゃん!」という方は、ぜひ島田荘司『水晶のピラミッド』を読んでみてください。「魔都」という章があったり、本筋と何の関係もない怪奇実話が語られたり、この2人へのリスペクトがそこかしこに…そして古代エジプトに絡む壮大なミステリーなのにトリックが机上の空論でむちゃくちゃ…なのはそれもそのはず、島田荘司は『牧逸馬の世界怪奇実話』というアンソロジーも編集してるぐらい谷譲次好きなんです。つながった、ぱちぱち。

 

 今回のお題は、「なぜ2人はこの内容を・この文体で書いたのか?」にします。谷譲次には横光利一新感覚派モダニズムが、久生十蘭には坪内逍遥二葉亭四迷経由の江戸戯作的な文体が影を落としているように感じるのは僕だけでしょうか。アメリカや中国大陸をめぐる文化的・政治的情勢なども読み取れそうな気もします。

 奇書読書会に初めて参加してみようという方は@bachelor_keatonまでTwitterでご連絡ください。

 では、当日お目にかかれますことを楽しみにしております。ゴールデンウィークの安逸をむさぼる帝都をBUMP!で染めましょう!!! 

 

 Nico


【追記・参考文献目録(随時更新)】

前田愛前田愛著作集』2~5、特に「SHANGHAI1925 都市小説としての『上海』」(『都市空間の中の文学』所収)

松山巌『乱歩と東京』『群衆』

大石雅彦『「新青年」の共和国』

室謙二『踊る地平線  めりけんじゃっぷ長谷川海太郎伝』

川崎賢子『彼等の昭和』

海野弘久生十蘭  『魔都』『十字街』解読

早稲田文学』1983年11月号「久生十蘭特集」、特に川崎賢子「『魔都』ー「大都会の時間外」のエネルギー」

ユリイカ』1987年9月号「特集: 『新青年』とその作家たち」、特に森常治「フロットサム・カルチャー・わんだーらんど

ユリイカ』1989年6月号 「特集: 久生十蘭  文体のダンディズム」、特に永瀬唯「公園の腸 『魔都』地下迷宮を読み解く」

渡部直己『日本小説技術史』


 

 

新作小説時評(1)

四次元的小説ー『銀河鉄道の夜


 宮沢賢治の新作『銀河鉄道の夜』は、三次元の現実を超えて行こうとする小説の力を感じる作品だった。冒頭の教室の場面で、ジョバンニの先生は星座の図の「ぼんやりと白いもの」について次のように生徒達に語る。

 

「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つの一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にあたるわけです。またこれを巨きな乳の流れと考えるならもっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かに浮かんでいる脂油の球にあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと云いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽も地球もやっぱりそのなかに浮んでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。」(一「午后の授業」)

 

 俯瞰で語りながら、いつの間にかその内側にいる。この作品はそうした外と内のふとした貫通に満ちている。物を凝視していくうち、いつしか物はそのありようを変え、見る者を物の中に引きずりこんでいく。「いちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したものでだまって見ていると何だかその中へ吸い込まれてしまうような気がするのでした」(九「ジョバンニの切符」)と描かれる切符や、「その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってものぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛む」銀河のまっくらな孔=石炭袋は、作品の原理を表す「物」たちである。ジョバンニは丘の草に横たわり銀河を見つめている場面から、気がつくと直前まで見つめていたはずの天の川を走る鉄道に乗り込んでいる。

 

「それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のように考えられて仕方なかったのです。」(五「天気輪の柱」)

気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。」(六「銀河ステーション」)

 

 ここでは「三次空間」での因果律はもはや機能していない。「こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思いました。そして二人は、前のあの河原を通り、改札口の電燈がだんだん大きくなって、間もなく二人は、もとの車室の席に座って、いま行って来た方を、窓から見ていました。」(七「北十字とプリオシン海岸」)のような奇妙な文章が平然とつづられる。銀河は、「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか。」と問うジョバンニに「どうしてって、来ようとしたから来たんです。」という鳥捕りの答えに象徴される、意志が媒介や障害なくそのまま透明に現実になる空間である。それはまた文学空間でもあると、作品は語っているようだ。

 現実では級友のザネリ達に「お父さんから、らっこの上着が来るよ。」と父の服役をからかわれたり、「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を」「何べんも眼を拭いながら」拾う労働で銀貨一枚を得たり、社会という関係の網目の中で生きているジョバンニだが、銀河では親友カムパネルラとの純粋化された友情を育むことに没頭できる。その体験は「すぐお父さんの書斎から巨きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒なページいっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見た」(一「午后の授業」)日の再来のように、ジョバンニに感じられたはずだ。

 

 作品におけるカムパネルラの第一声は「みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった。」(六「銀河ステーション」)であり、友人達特にザネリは排除され、ジョバンニに「(そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)」と幸福な錯覚を起こさせている。また「水筒」も「スケッチ帳」も忘れてきたのに「構わない」と言うカムパネルラは、彼が持つ黒曜石の地図とともに実用性中心の社会から断絶されていることを宣言している。列車が進むうち乗り込んでは話しかけてくる個性的な乗客達は、ジョバンニとカムパネルラが二人でいることを阻害しつつも、かえって二人の関係を強める役割を果たしている。鳥捕りを邪魔と思いつつも「僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったろう。」「ああ、僕もそう思っているよ。」と鳥捕りの喪失を二人で嘆き、「ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行く人はないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談しているし僕はほんとうにつらいなあ。」と他の乗客の介在を嫌い、女の子達が降りたとたん「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。」「うん。僕だってそうだ。」と二人で絆を確認することで、二者関係は純粋化されてゆく。しかし、四次元の銀河を走る鉄道に乗ることでジョバンニが理解したのは、現実という三次空間を離れてさえも、純粋な二者関係が不可能であるということではないか。

 どういうことだろうか。ジョバンニが鉄道に乗ってすぐ、カムパネルラは「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」(七「北十字とプリオシン海岸」)と切り出す。ジョバンニは自分の母を病気のまま地球に残していることを思い出すが、カムパネルラには「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」という鈍感な反応しかできない。そして旅の終わり近く、先ほど引用した「どこまでもどこまでもいっしょに行こう。」「うん。僕だってそうだ。」という会話の直後、ジョバンニは「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」と投げかける。カムパネルラは「僕わからない。」と返すのみなのだが、これはジョバンニに「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」と言われた後とまったく同じ答えである。どれほど解り合える同士でも、家族や幸福という切実な問題には「君の気持わかる」ではなく「わからない」という答えを返すことがもっとも誠実な態度である局面が、必ずある。互いに自らの信じる価値を理解させようとしたジョバンニと家庭教師の青年の「ほんとうの神さま」をめぐる対話がすれ違いに行き着くほかなかったように。そしてカムパネルラが「あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのはぼくのお母さんだよ。」と指し示す先に、ジョバンニは「ぼんやり白くけむっているばかり」のものしか見ることができない。それは冒頭の「ぼんやりと白いもの」に似ているが、天の川のように先生の科学的解説を聞いて他人が了解することを許さない何物かなのだ。

 

「「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえってみましたらその今までカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかり光っていました。」(九「ジョバンニの切符」)

 

 カムパネルラはこの時点で「現実」には死んでいるため、実は作品中の「現実」で一言も発することなく、ジョバンニの前からも読者の前からも姿を消してしまう。しかもカムパネルラの死はジョバンニが嫌っているザネリの生を贖うためのものだったことが後で明かされ、「僕たち一緒に行こうねえ」というジョバンニの呼びかけは宙に浮いたまま終わっている。カムパネルラの喪失を機に、ジョバンニは現実の諸関係から切り離されていた四次元の銀河から醒め、「一さんに丘を走って下りて」三次元の現実に下降してゆく。母親のための牛乳という、現実の必要を思い出したためだ。

 ではジョバンニの見た幻想は、相互理解に至らないカムパネルラとの銀河の旅は、無意味だったのか。丘で体を横たえなどせず、「川へははいらないでね。」という母の言い伝えをジョバンニが早くカムパネルラに伝えていれば、あるいはカムパネルラは命を落とさずに済んだのかもしれない。しかし作品は、カムパネルラの行動も、ジョバンニの未行動も、ともに肯定している。白鳥の停車場でカムパネルラがつまんだ砂、「中で小さな火が燃えている」と言った水晶の粒のように、あるいは大学士が発掘する百二十万年前のボスの化石のように、カムパネルラが散らした命も、不在でありながら燐光を発し、ジョバンニに力を与え続けるだろう。「もういろいろなことで胸がいっぱいで」「もう一目散に河原を街の方へ」走っていくジョバンニが、これからどのように生きるのか、背中を見送る読者にはわからない。しかし、四次元の銀河で「僕はもうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。」と決意したこと、その時カムパネルラという名の友と一緒だったことを、ジョバンニは「三次現実」を生きる中で折々思い出すだろう。それはこの、「まるで粟粒くらいの活字」が銀河のように散らばった四次元的小説を旅した後現実に帰還していく読者も同じなのだ。

 

参考文献

見田宗介宮沢賢治 ー存在の祭りの中へ』(岩波書店1984年)

千葉一幹『賢治を探せ』(講談社選書メチエ、2003年)

押野武志セカイ系文学の系譜―宮沢賢治からゼロ年代へ」(押野武志編著『日本サブカルチャーを読む』北海道大学出版会、2015年. 所収)