第7回天上天下唯我独奇書読書会開催のお知らせ

 がたん!

ーという一つの運命的な衝動を私たちに伝えて、その読書会の告知は開始した。

 

 えんたあ・えんたあ!

 へんかん・しふと・F6!

 えんたあ・えんたあ・えんたあ!

 

ふたたびタイトル。

「第7回天上天下唯我独奇書読書会―。」

 

 こんばんは、Nicoです。今回は昭和モダニズムの香りも高く、北海道は函館中学校で運命的にも先輩・後輩の関係だった2人の文章の魔術師を取り上げます。

 

日時:2017年5月5日(金・祝)14:00~17:00

場所:新宿「らんぶる」地下席

課題奇書:谷譲次『踊る地平線』(上・下)(岩波文庫 発表1929年)

     久生十蘭『魔都』(創元推理文庫、4/21発売予定 発表1938年)

 

 谷譲次林不忘の名義で時代劇史上に残るヒーロー丹下左膳を創造し、牧逸馬の名義では怪奇実話で世を震撼させた多才の人。『踊る地平線』はアメリカ体験記「めりけんじゃっぷ」物で知られていた譲次が天衣無縫な文体で描いたヨーロッパ旅行記で、織田裕二主演のあのドラマにも影響を与えていること間違いなし!「事件は旅行先で起きてるんだ!」

 その後輩久生十蘭は、「作家にとっての作家」と呼ぶにふさわしい技巧的な名文家です。かつて奇書読書会で取り上げた中井英夫が偏愛したことで知られ、『虚無への供物』の探偵役・奈々村久生のネーミングの由来ともなりました。特に『魔都』は昭和九年大晦日~翌昭和十年元旦の帝都東京に巻き起こる怪事件をタイムリミットサスペンスで描いた十蘭の最高傑作で、ほぼレインボーブリッジを封鎖せよ!です。今回、『新青年』連載時の初出から装いも新たにもうすぐ文庫化されるということで、創元推理文庫版を指定させていただきました。(すでに出版されている、奇書ファン御用達のレーベル『日本探偵小説全集8 久生十蘭集』にも『魔都』は収録されているので、そちらを読んで来ていただいてもかまいません。←※3/30追記: これは大ウソでしたごめんなさい!(笑) 『久生十蘭集』には「湖畔」「ハムレット」「顎十郎捕物帖」など代表作が収録されてますが『魔都』はなし。朝日文芸文庫版『魔都 久生十蘭コレクション』をお探しくださいm(__)m)


 今回はぜひみんなでこの2人をいっしょに読みたい!と思ったので2作品になってしまいました。時間の取れない方はどちらかを読了していただければ楽しめる会にしたいと思います。でもでも、「いやいやヒマでしょうがない、もっと奇書読ませてよNicoちゃん!」という方は、ぜひ島田荘司『水晶のピラミッド』を読んでみてください。「魔都」という章があったり、本筋と何の関係もない怪奇実話が語られたり、この2人へのリスペクトがそこかしこに…そして古代エジプトに絡む壮大なミステリーなのにトリックが机上の空論でむちゃくちゃ…なのはそれもそのはず、島田荘司は『牧逸馬の世界怪奇実話』というアンソロジーも編集してるぐらい谷譲次好きなんです。つながった、ぱちぱち。

 

 今回のお題は、「なぜ2人はこの内容を・この文体で書いたのか?」にします。谷譲次には横光利一新感覚派モダニズムが、久生十蘭には坪内逍遥二葉亭四迷経由の江戸戯作的な文体が影を落としているように感じるのは僕だけでしょうか。アメリカや中国大陸をめぐる文化的・政治的情勢なども読み取れそうな気もします。

 奇書読書会に初めて参加してみようという方は@bachelor_keatonまでTwitterでご連絡ください。

 では、当日お目にかかれますことを楽しみにしております。ゴールデンウィークの安逸をむさぼる帝都をBUMP!で染めましょう!!! 

 

 Nico


【追記・参考文献目録(随時更新)】

前田愛前田愛著作集』2~5、特に「SHANGHAI1925 都市小説としての『上海』」(『都市空間の中の文学』所収)

松山巌『乱歩と東京』『群衆』

大石雅彦『「新青年」の共和国』

室謙二『踊る地平線  めりけんじゃっぷ長谷川海太郎伝』

川崎賢子『彼等の昭和』

海野弘久生十蘭  『魔都』『十字街』解読

早稲田文学』1983年11月号「久生十蘭特集」、特に川崎賢子「『魔都』ー「大都会の時間外」のエネルギー」

ユリイカ』1987年9月号「特集: 『新青年』とその作家たち」、特に森常治「フロットサム・カルチャー・わんだーらんど

ユリイカ』1989年6月号 「特集: 久生十蘭  文体のダンディズム」、特に永瀬唯「公園の腸 『魔都』地下迷宮を読み解く」

渡部直己『日本小説技術史』


 

 

新作小説時評(1)

四次元的小説ー『銀河鉄道の夜


 宮沢賢治の新作『銀河鉄道の夜』は、三次元の現実を超えて行こうとする小説の力を感じる作品だった。冒頭の教室の場面で、ジョバンニの先生は星座の図の「ぼんやりと白いもの」について次のように生徒達に語る。

 

「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つの一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にあたるわけです。またこれを巨きな乳の流れと考えるならもっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かに浮かんでいる脂油の球にあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと云いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽も地球もやっぱりそのなかに浮んでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。」(一「午后の授業」)

 

 俯瞰で語りながら、いつの間にかその内側にいる。この作品はそうした外と内のふとした貫通に満ちている。物を凝視していくうち、いつしか物はそのありようを変え、見る者を物の中に引きずりこんでいく。「いちめん黒い唐草のような模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したものでだまって見ていると何だかその中へ吸い込まれてしまうような気がするのでした」(九「ジョバンニの切符」)と描かれる切符や、「その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってものぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛む」銀河のまっくらな孔=石炭袋は、作品の原理を表す「物」たちである。ジョバンニは丘の草に横たわり銀河を見つめている場面から、気がつくと直前まで見つめていたはずの天の川を走る鉄道に乗り込んでいる。

 

「それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のように考えられて仕方なかったのです。」(五「天気輪の柱」)

気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。」(六「銀河ステーション」)

 

 ここでは「三次空間」での因果律はもはや機能していない。「こんなにしてかけるなら、もう世界中だってかけれると、ジョバンニは思いました。そして二人は、前のあの河原を通り、改札口の電燈がだんだん大きくなって、間もなく二人は、もとの車室の席に座って、いま行って来た方を、窓から見ていました。」(七「北十字とプリオシン海岸」)のような奇妙な文章が平然とつづられる。銀河は、「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか。」と問うジョバンニに「どうしてって、来ようとしたから来たんです。」という鳥捕りの答えに象徴される、意志が媒介や障害なくそのまま透明に現実になる空間である。それはまた文学空間でもあると、作品は語っているようだ。

 現実では級友のザネリ達に「お父さんから、らっこの上着が来るよ。」と父の服役をからかわれたり、「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を」「何べんも眼を拭いながら」拾う労働で銀貨一枚を得たり、社会という関係の網目の中で生きているジョバンニだが、銀河では親友カムパネルラとの純粋化された友情を育むことに没頭できる。その体験は「すぐお父さんの書斎から巨きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒なページいっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見た」(一「午后の授業」)日の再来のように、ジョバンニに感じられたはずだ。

 

 作品におけるカムパネルラの第一声は「みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった。」(六「銀河ステーション」)であり、友人達特にザネリは排除され、ジョバンニに「(そうだ、ぼくたちはいま、いっしょにさそって出掛けたのだ。)」と幸福な錯覚を起こさせている。また「水筒」も「スケッチ帳」も忘れてきたのに「構わない」と言うカムパネルラは、彼が持つ黒曜石の地図とともに実用性中心の社会から断絶されていることを宣言している。列車が進むうち乗り込んでは話しかけてくる個性的な乗客達は、ジョバンニとカムパネルラが二人でいることを阻害しつつも、かえって二人の関係を強める役割を果たしている。鳥捕りを邪魔と思いつつも「僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったろう。」「ああ、僕もそう思っているよ。」と鳥捕りの喪失を二人で嘆き、「ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行く人はないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談しているし僕はほんとうにつらいなあ。」と他の乗客の介在を嫌い、女の子達が降りたとたん「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。」「うん。僕だってそうだ。」と二人で絆を確認することで、二者関係は純粋化されてゆく。しかし、四次元の銀河を走る鉄道に乗ることでジョバンニが理解したのは、現実という三次空間を離れてさえも、純粋な二者関係が不可能であるということではないか。

 どういうことだろうか。ジョバンニが鉄道に乗ってすぐ、カムパネルラは「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」(七「北十字とプリオシン海岸」)と切り出す。ジョバンニは自分の母を病気のまま地球に残していることを思い出すが、カムパネルラには「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」という鈍感な反応しかできない。そして旅の終わり近く、先ほど引用した「どこまでもどこまでもいっしょに行こう。」「うん。僕だってそうだ。」という会話の直後、ジョバンニは「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」と投げかける。カムパネルラは「僕わからない。」と返すのみなのだが、これはジョバンニに「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」と言われた後とまったく同じ答えである。どれほど解り合える同士でも、家族や幸福という切実な問題には「君の気持わかる」ではなく「わからない」という答えを返すことがもっとも誠実な態度である局面が、必ずある。互いに自らの信じる価値を理解させようとしたジョバンニと家庭教師の青年の「ほんとうの神さま」をめぐる対話がすれ違いに行き着くほかなかったように。そしてカムパネルラが「あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのはぼくのお母さんだよ。」と指し示す先に、ジョバンニは「ぼんやり白くけむっているばかり」のものしか見ることができない。それは冒頭の「ぼんやりと白いもの」に似ているが、天の川のように先生の科学的解説を聞いて他人が了解することを許さない何物かなのだ。

 

「「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえってみましたらその今までカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかり光っていました。」(九「ジョバンニの切符」)

 

 カムパネルラはこの時点で「現実」には死んでいるため、実は作品中の「現実」で一言も発することなく、ジョバンニの前からも読者の前からも姿を消してしまう。しかもカムパネルラの死はジョバンニが嫌っているザネリの生を贖うためのものだったことが後で明かされ、「僕たち一緒に行こうねえ」というジョバンニの呼びかけは宙に浮いたまま終わっている。カムパネルラの喪失を機に、ジョバンニは現実の諸関係から切り離されていた四次元の銀河から醒め、「一さんに丘を走って下りて」三次元の現実に下降してゆく。母親のための牛乳という、現実の必要を思い出したためだ。

 ではジョバンニの見た幻想は、相互理解に至らないカムパネルラとの銀河の旅は、無意味だったのか。丘で体を横たえなどせず、「川へははいらないでね。」という母の言い伝えをジョバンニが早くカムパネルラに伝えていれば、あるいはカムパネルラは命を落とさずに済んだのかもしれない。しかし作品は、カムパネルラの行動も、ジョバンニの未行動も、ともに肯定している。白鳥の停車場でカムパネルラがつまんだ砂、「中で小さな火が燃えている」と言った水晶の粒のように、あるいは大学士が発掘する百二十万年前のボスの化石のように、カムパネルラが散らした命も、不在でありながら燐光を発し、ジョバンニに力を与え続けるだろう。「もういろいろなことで胸がいっぱいで」「もう一目散に河原を街の方へ」走っていくジョバンニが、これからどのように生きるのか、背中を見送る読者にはわからない。しかし、四次元の銀河で「僕はもうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。」と決意したこと、その時カムパネルラという名の友と一緒だったことを、ジョバンニは「三次現実」を生きる中で折々思い出すだろう。それはこの、「まるで粟粒くらいの活字」が銀河のように散らばった四次元的小説を旅した後現実に帰還していく読者も同じなのだ。

 

参考文献

見田宗介宮沢賢治 ー存在の祭りの中へ』(岩波書店1984年)

千葉一幹『賢治を探せ』(講談社選書メチエ、2003年)

押野武志セカイ系文学の系譜―宮沢賢治からゼロ年代へ」(押野武志編著『日本サブカルチャーを読む』北海道大学出版会、2015年. 所収)

僕たちの失敗―『高校教師』論

 生物準備室、昼休み。結婚生活の難しさを自嘲的に語った新庄徹(赤井秀和)に、羽村隆夫(真田広之)が生物学の知識で応じる些細な場面がある(『高校教師』第3話「同性愛」)。

 

羽村「知ってますか?カマキリの共食いの話。」

新庄「ああ、あの雌が雄食ういうやつ?」

羽村「交尾の前、雌は隙あらば雄を食べようとします。まず頭を噛み切ってそれから食べ始めるんです。」

新庄「ん?あの、交尾の後やないの?」

羽村「フフッ。頭がなくても雄の性行為は止まりません。つまり、昆虫の頭は抑制中枢神経の座にあるので、雌は頭を食べることで性行為を活発化することができるんですね。」

 

 この場面は何のために設けられているのか?第1話、羽村の家で二宮繭(桜井幸子)に語られる月のかけらといつか空を飛ぶ人類の話、第2話で二度語られ、婚約者との疎隔と繭との親和を視聴者に印象付けるペンギンの話、それら印象的なエピソードの再演に過ぎないのか?引用した会話の直後の「経験の裏づけのない、知識だけですけどね」という台詞が象徴する、羽村のユーモラスな変人ぶりを演出するシーンか?あるいは繭を愛すことで理性を失ってゆく羽村自身の運命を暗示しているのだろうか?

 そうではない。いや、むしろそのどれもが正解だが、強調されるべきはここで脚本家野島伸司が明確にある書物を参照しているということだ。その記述は動物の「利己的」な行動例の二番目に挙げられている。

 

「いっそうよく知られている例に、雌のカマキリのおそろしい共食いがある。カマキリは大形の肉食性の昆虫である。彼らはふつうハエのような小形の昆虫を食べるが、動くものならほとんどなんでも攻撃する。交尾のさいには、雄は注意ぶかく雌にしのびより、上にのって交尾する。雌はチャンスがありしだい雄を食べようとする。雄が近づいていくときか、上に乗った直後か、はなれたあとかに、まず頭を咬み切って食べはじめる。雌は交尾の終わってから雄を食べはじめるほうがよさそうに思われよう。けれど、頭がないことは、雌の体ののこりの部分の性的行為の進行を止めることにはならないようである。じっさい、昆虫の頭は抑制中枢神経の座であるので、雌は雄の頭を食べることによって、雄の性行為を活発化することができる。」(ドーキンス利己的な遺伝子』p.21-22)

 

 羽村の台詞と引用部末尾の文章が語句の選択を含めて同一であるのがわかる。リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子』(原著1976年)が、『生物=生存機械論』(邦訳1980年)から改題され「科学選書」の一冊として紀伊國屋書店から刊行されたのが1991年。いま手元にあるのと同じ赤白二色の表紙は、第2話で羽村が駅のホームで立ち読みしている場面ではっきりと確認できるから、作中の時間を『高校教師』が放映された1993年として、羽村は生物学の研究者としての興味からドーキンスの主著を読んでいたのだろう。そもそも羽村は、その職業も明確にされない時点で既に、荷物の中身を改めた駅員に「『利己的な遺伝子』?ずいぶん難しそうな本読んでるんだね」(第1話)と話しかけられる存在として視聴者の前に立ち現れるのであり、また婚約者にペンギンの話を披露した後も「まあそこが、リチャード・ドーキンスの指摘する利己的な遺伝子、というわけなんです」(第2話)と付け加えていて、早い時期から『利己的な遺伝子』とのインターテクスチュアリティーは強調されていた。しかしそれでも冒頭の場面が感銘深いのは、野島伸司が実際にこの本(の少なくとも一部)を読んでいたことが証明されるからだ。

 よく知られるように、ドーキンスは動物界の「利他行動」を、遺伝子を搭載した機械としての個体が取りうる最適戦略の一つとして記述しセンセーションを巻き起こした。例えば性的なパートナーシップは「相互不信と相互搾取の関係」に他ならない。

「求愛の儀式に際して、雄はしばしばかなりの量の婚前投資を行うことがある。これは家庭第一の雄を選ぶ戦略の一形態とも考えられる。雌は、交尾に応ずる前に雄が子供に対して多量の投資をするようにしむけ、そのため交尾後の雄はもはや妻子を棄てても何の利益も得られないようにしてしまうことができるのではないだろうか」(p.239)

 ドーキンスの本が話題を呼んだのは、上の引用が代表するように、動物を叙述しながらもそれが人間の比喩とも受け取れる巧妙な文章に理由がある。羽村によれば「普遍的な愛なんてものは、進化の過程においては、何の意味も持たないと言われているんだよ。生物学者は、ある意味で皆そう思ってる。全ての遺伝子が利己的であるという説が正しければ、生き物は皆本質的に孤独なんだ。こうして集う水鳥も…人間だって」(第5話)。しかし、ドーキンスの立論を読んだ野島伸司は、動物と人間は異なる、と感じたのではないか。"愛の名の下に"人間が取る行動は、遺伝子の戦略や計算など超えている、と。『高校教師』は反『利己的な遺伝子』である。藤村知樹京本政樹)は語る―「人間はね、本気で人を愛すると狂いますよ。理性やモラルなんて、何の歯止めにもなりません…例外なく人間はね」(第10話)。動物なら例外なく、狂いなどしないのだ。

 『高校教師』の世界は、半分だけドーキンスと似通った世界だ。『高校教師』は自らの「物語」にしがみつきその承認を求め闘い合う個人たちの記録である。しかし後の半分は、人間的な、あまりに人間的な次元に属している。自らの「物語」とは調和することのない他者に、にも関わらず愛ゆえに深くコミットしていく人間の。本稿では以下、男性キャラクターの視点を中心にこの問題を考察していく。

 

 意外なことに『高校教師』には暴力としての暴力は存在しない。暴力は自らの信じていた「物語」を守るための防衛反応として現れる、きわめて観念的な存在である。近代社会の本質を「承認をめぐる闘争」と看破したのはヘーゲルであったが、第5話の羽村と彼の兄との格闘は「物語」同士の対立が暴力となって現れている良い例である。羽村の突然の婚約解消と高校教師への転身を、弟を大学教授にさせるべく郷里で農業を営み援助してきた身として不満に思う兄に、羽村は初め静かに語り始める。

 

羽村「兄ちゃんは偉いよ。いつも言うことは正しいさ。だけど、兄ちゃんの方こそ…自分、ごまかしてきたんでねえべや?」

兄「俺はおまんとは違う。」

羽村「自分のやりたいことがあったのに、それをば隠してたでねか?結婚相手だって、親の言いなりじゃなきゃあ?自分の夢俺に背負わせて、んで親の面倒ば見てますって被害者面すんのはやめてくりゃえ!」

兄「もう一度言ってみろ。」

羽村「兄ちゃんはなぁ、俺に嫉妬してたのさ。親父は俺のこと可愛がるって嫉妬してたのさ。それなのに親父の面倒だとか、俺に仕送りしてるとかそういう歪んだ自己満足に浸って生きてんのさ。…悲劇の主人公ぶって、同情されてえのは、自分じゃねえかよ!」

兄(羽村を殴り)「お前なんかに農家の長男の気持ちがわかるか!やりたいことやりに、好きなことやりに東京出てった人間にな!」

羽村「やりてえことがあったら、家出でも何でもしりゃよかったねえか!」

兄(再び殴り)「能書きばっか覚えやがって!」

 

 以下本格的な殴り合いに発展するが、長々と引用してしたのは羽村と兄が互いの「物語」の欺瞞を暴き合うさまがあまりに見事に描写されているからだ(全体から見て台詞自体は少ないとはいえ、この羽村と兄の場面、新庄と彼の子の場面は非常に感動的である)。この兄弟の対立自体は、直後のバス停のシーンで「教養ないスケ、あげな言い方しか出来なかったどもな」と言う兄の晴れ晴れした笑顔で和解に導かれるが、しかし二つの「物語」を本質的に調停することはできない。他者を自己の「物語」に従えて統御すること、その最もグロテスクな例が藤村による相沢直子(持田真樹)の強姦である。藤村の行使した「暴力」は性的欲望ではなく(いわば)「物語」的欲望に発しており、だからこそ藤村は自らの犯罪を隠蔽しようと真剣に努力していない。藤村は「恋人ができましてね」と羽村に語り、「男性がその性的に充足すべき対象を求めると現代では一様に低年齢化する」(第4話)と得意げに論じる。新庄の自宅の前で直子を車に寄せつつ大音量のクラクションを鳴らす時の藤村は、「直子は自分を愛する恋人である」という物語に酔い、それを誇示して周囲に承認させようと欲していたのではないだろうか。犯罪の証拠となるビデオテープを突き付けられてもなお「中を見たんでしょ?野蛮とは心外だな…綺麗に撮れてる」「僕は何も悪いことしてないのに」等と口走る藤村はほとんど観念の狂気の世界に足を踏み入れている。「殴ったりして悪かったね…けど、君が僕に対して従順でいてくれないからだよ。僕はただ…君に愛して欲しいだけなんだよ」(第9話)。しかし新庄には藤村の「物語」は「狂っとるわ」としか感じられない。「新庄=信条」・徹、という名を与えられた彼は、「教師は優れた人間であるべき」という信条(「俺は教師である前に人間じゃ!」)に徹するため藤村を許せず、直子を殴った藤村に暴力を加えて失職する。

 かくまでに「物語」の防衛は死活問題である。主人公羽村とて例外でなく、作品前半の彼は「春には結婚して研究室に戻る」と自分にも周囲にも言い聞かせ続け、繭に婚約者が他の男といたことを教えられそうになると「やめろ!言うな!それ以上言うな!…言わないでくれ。俺は何も聴かない。何も見なかったんだ。」(第3話)と、繭の報告と直接関係のない、病院で窃視した光景も含めて否認しようとする。浮気の事実を知ってなお結婚式の招待状を発送し続けるが、「私はあなたが考えているような、箱入りのお人形さんタイプじゃないの」「あんなとこ見て、見ぬふりしようとするなんて」(第4話)と婚約者その人に、父である教授からは「君は何か勘違いをしているようだね。研究室に空きはないんだ」(第4話)と結婚・学問双方の「物語」の欺瞞を暴露されてしまう。「僕は何もかも失ってしまった…」という羽村の述懐には、依るべき「物語」を失った個人の悲痛さがある。羽村が繭を心から求め始めたのはこの時だ。

 

羽村の語り「あの時君は、いつまでもそばにいて、一緒に泣いてくれたんだね。こんなちっぽけで弱虫な僕のために…。」

 

 この部分を岡田恵和脚本の『夢のカリフォルニア』第5話と比較してみたい。山崎終(堂本剛)が就職活動の面接官に人格を否定され、自殺未遂とも思える事故で入院、そこに山崎家の家族と二人の女友達、麻生恵子(国仲涼子)と大場琴美(柴咲コウ)が迎えに来る、という場面。

 

終の語り「僕はうれしかった。一番会いたいと思っていた人が来てくれて、僕が必要だと言ってくれた。それが、うれしかったんだ。二人の手は、あったかかった。」

 

 いずれも主人公が絶望的状況にある所を周囲が共に悲しんでくれることで救われる、という心情を表現するモノローグであるが、野島・岡田両者の特質がはっきりと出ている。岡田恵和作品には必ずと言っていいほど主人公を取り巻く(『めぞん一刻』的な)中間共同体が登場し、男女共に含むほとんど拡大家族と称すべき親密圏(『ビーチボーイズ』・『ちゅらさん』・『泣くな、はらちゃん』)を構成する。(『夢のカリフォルニア』の場合、終の親友二人はいずれも異性に設定されているから一層前景化されるが)この親密圏は原則恋愛とは別次元の論理で作動しており、異性愛はあってもあくまで「複数の中の二人」として扱われる。上の引用で「一番会いたいと思っていた人」が何の説明もなく「二人」であって一人ではないのは、岡田作品では当然なのである。それに対して野島作品の「僕たち」は二人でしかあり得ず、他の者を排除する。言い換えれば、岡田作品では主人公の親密圏が社会親和的であり、野島作品では極めて反社会的である。

 『夢のカリフォルニア』で終は家族の来訪も嬉しがっており、また家族は恵子と琴美を信頼し気を利かせて終を預けその場を外す。このような風通しの良い家族のあり方も、「お前がいなければダメなんだ」(第3話)と床に伏せて娘に懇願し、「その男はお前を本気で愛してなどいない。それは、その男自身が気づいているはずだ」(第10話)と留守電にまで羽村への罵倒を吹き込む、繭の父・二宮耕介の娘に執着する姿とあまりに対照的だ。同じく山田太一を尊敬する両脚本家の分岐は興味深く、また北川悦吏子を二人の間に置くことで、『ふぞろいの林檎たち』から現代に発展したテーマの振幅を近似することができるであろう。

 

 『高校教師』に登場する主要な女子生徒は繭と直子の二人のみであり、実はこの二人以外は恋愛対象としては次々と脱落していく(独身の女教師、教育実習生、新庄の元妻)。これはリアリティーに欠けるように思えるが、制作サイドとしては「教師と生徒の禁断の愛」という話題性を狙いたい事情とともに、脚本家としては「教師と生徒」「父と娘」のように禁忌を設定することで、男性登場人物の「物語」に女性が「他者」としてどう関わるのか、というテーマを純粋化したかったという理由があると考えられる。主要登場人物の範列構造は以下である。

 

上位価値

羽村隆夫

 

新庄 徹

 

 

二宮 繭

 

相沢直子

 

下位価値

二宮耕介

 

藤村知樹

 

 

 この表はいろいろと興味深い情報を含んでいる。上位価値を視聴者に肯定的に、下位価値は否定的に受け取られると想定されるキャラクターの属性とすると、表を横に読めば上段の人物は女子生徒に信頼され、下段の人物は遠ざけられつつ求められている。表を縦に読めば、右列の男性は何だかんだで生き延びているのに比べ、左列の男性は命を失うかそれが強く暗示されている。これは繭の方が直子よりも「他者」としての強度が強いことと関係すると思われる(何かを不可視の内部に秘めた「繭」と、苦境にも負けず頑張る「直」子の対比)。

 また対角線の関係(対偶)も重要である。新庄と二宮は、ともに最終的には女性の前から自らの意志で姿を消す―新庄のように「忘れろ。俺のこともや。」と警告してか、二宮のように繭を去らせた後にそのままでも死ぬ所に自ら火をつけるか、演出の度合いの違いはあれ。彼らは破滅はしつつも自らの視界から他者を抹消することで、実は自らの「物語」を守り切ったとも言える。最終回で羽村が自首しようとするのを、新庄が二宮の自殺する意思を忖度して止めるのも不思議ではない(二宮耕介の焼身自殺は新庄の別離の拡大された比喩である)。もちろん「物語」の防衛は臆病を意味するものではなく、事実新庄は作品中唯一倫理的に賞賛され得る人物である。

 しかしながら、ドラマの人物として輝くのは、当然自らの「物語」を「他者」としての異性に突き崩される登場人物である。羽村―藤村の対角線はこの系列をなし、あらゆる意味で藤村は羽村の陰画である。例えば彼らはイニシャルH. Tを共有し、共に女生徒の肌に痕跡を残す原因となっている(藤村は直子を殴打し、羽村は塩酸をかけられて庇った繭の手首にあざを残す)。上下の位置の違いから、藤村がもたらした痕跡は新庄を激昂させる引き金となるのみだが、羽村による痕跡は繭に二人の絆の象徴として愛おしく思われ(形成外科で治ると医師に言われたのに治療していないためそう推定される)、羽村自身も旅館で二人になった時、繭のこのあざに接吻する。

 それでは二人の「物語」の結末を見てみよう。藤村は新庄との一件を経ても、病院に見舞いに来た直子に対して「君も僕を愛してはくれなかったんだ!女なんてみんなそうだ!」と、自らの「直子は自分を愛してくれる」という物語に拠った、独善的な発言しかできない。直子の返答、「先生…女の子はもっとちゃんと好きになるよ。男より、ずっと真剣にしてるよ」(第10話)の前に、象徴的にも転倒して松葉杖を失う藤村は起き上がることすらできず、実質的に作品から退場する。

 では羽村はどうだろうか。近親相姦の事実を知ってしまった後の羽村にとって、繭はもはや「羽村の知る繭」ではなく、「ほんとうの繭」すなわち「他者」である。この「繭」像の二重化は、作品の序盤から羽村の靴箱に入れられていた「助けて」のメッセージの書き手が繭であり、羽村と身体を重ねてからもずっと羽村に秘密のまま投函していたことが明らかになるという、ドラマの時間性を最大限に利用した演出によって、鮮烈に印象付けられる。自身置き手紙に「あたし、先生と普通の恋がしたかった。…バカだねあたし、自分はちっとも普通じゃなかったのにね」(第10話)と後になって書いているように、繭は絶対的なアウトサイダー、単独者である。

 ここで羽村は「他者」である繭とのコミュニケーションを諦めて自らの「物語」に撤退することもできたし、そうすることが道義的でない態度だとは誰にも言えない。しかし羽村はコミットメントを選ぶのだ。羽村は二宮家から繭を連れ出す時、「僕は…彼女の教師です」と言えばよかった。にもかかわらず彼は「僕は…彼女を愛しています」と二宮耕介に告げてしまう。

 

羽村の語り「生まれて初めて”愛してる”という言葉を口にした。ただ、あの時の僕は、一方で君に、まだ拭い切れない、嫌悪感を抱いていた…」(第9話)

 

 もはや羽村は「物語」の承認を求めてなどいない。むしろ嫌悪で「物語」が破砕されるかもしれなくとも、繭と関わろうとしている。後に彼が二宮耕介を刺す時の空ろな表情は、愛するという営みを本当には遂行した時人間はどうなるかを、その極限において示している。

 第10話での羽村は、かつてあれほど好んだ生物学の話題(「コオロギの順位制」についての論文)を、せがまれても話さない人間になっている。彼はおそらくどこかで、動物界と人間界のアナロジーが成り立たないことに、自らの人生を贖うことで気づいたのだろう。明らかに彼らは失敗した。しかし彼らはその失敗をもって、愛するとは本当には何かを開示している。視聴者にすぎないわれわれは画面の中の彼らに想像的にコミットすることで、われわれ自身が真に、動物とは異なった人間であることを確かめることができるのだ。われわれは羽村と繭の物語を目撃し、感情移入し、承認する。その意味では、彼らは闘争に勝利したのである。

 さて、「『高校教師』は反『利己的な遺伝子』である」とこの論は始められた。しかしドーキンスであれば、『高校教師』こそが『利己的な遺伝子』の正しい解釈だと言うかもしれない。末尾でドーキンスは、急に人間の独自性を謳歌するからだ。

「われわれは遺伝子機械として組立てられ、ミーム機械として教育されてきた。しかしわれわれには、これらの創造者には歯向かう力がある。この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである。」(p.321)

 遺伝子に反逆し、生物的に失敗することこそが、「僕たち」=われわれの成功なのかもしれない。

第6回天上天下唯我独奇書読書会開催のお知らせ

Happy Barthday!!

 

 ある意味では、僕、Nicoです。ボブ・ディランが「行けたら行く」と言ってノーベル文学賞を受賞したのを知ってる人も、実はその前にジョン・バースが「もらえるならもらう」と言って必死に賞もらおうとしてたことは知らないのでは?今年2017年はバースがデビューして60周年、アメリカ屈指のポストモダン-メタフィクション奇書作家にして万年ノーベル文学賞落選候補筆頭、愉快な天才ジョン・バースのHappy Barth-yearを皆で祝おうではありませんか!

「バースは初めて…」というアナタでも大丈夫!『酔いどれ草の仲買人』『やぎ少年ジャイルズ』『レターズ』などのいずれ劣らぬ大作の前に、この読書会はチャーミングな中編集『キマイラ』からスタートします。バースに興味ある方は今がチャンスです!今から50日オペレーターを増員してお待ちしています!!

 

日時:2017年3月11日(土)14:00~17:00

場所:新宿「らんぶる」地下席

課題奇書:ジョン・バース『キマイラ』(新潮社、國重純二訳)

 

『キマイラ』はアラビアンナイトに登場するシェヘラザードの妹を語り手にした短編「ドニヤーザード物語」と、ギリシア神話の英雄譚に材を取った2つの中編「ペルセウス物語」「ベレロフォン物語」からなる中編集です。キマイラとはベレロフォンが倒すライオンとヤギとヘビの複合した怪物の名であり、名は体を表すというようにこの作品の複層性・異形性も表しています。第2回奇書会で読んだ『アラビアの夜の種族』や、第3回で取り上げた『優雅で感傷的な日本野球』の「日本野球創生綺譚」にも思わず手が伸びるところです。

 今回のお題は、「それぞれの物語の語り手は、誰に・何のために語っているのか?」とします。ややこしい小説なので(読み始めればすぐわかります)できれば早めに読み、当日までいろいろ考えをめぐらせてきてください。

 初めて参加される方は、人数調整の関係で@bachelor_keatonへ事前に参加希望のご連絡を頂けますよう。

 それでは、作者バースになりかわりまして、当日のバース・デイパーティーにて皆さまをお待ちしております。

 

Nico

総括2016年の文化(後編・上)

 ここで今年日本で作られたテレビドラマに目を向けることにしよう。結論を先取りして言うなら、さまざまなジャンルが花開いているように見えるドラマ界は、市場社会におけるアイデンティティーの強調という傾向にますます収斂している。

 『ゆとりですがなにか』(日テレ、4~6月)は、脚本家・宮藤官九郎が初めて手掛けた社会派ドラマとして注目された。ゆとり第一世代の大手食品会社サラリーマン坂間(岡田将生)、小学校教師山路(松坂桃李)、風俗店呼び込みをしながら11浪中のまりぶ(柳楽優弥)の三人が「レンタルおじさん」(吉田鋼太郎)の媒介とひょんな偶然をきっかけに知り合い、「これだからゆとりは」とレッテルを貼られたり、社会の理不尽な圧力に押し潰されそうになったりしながら奮闘していく、というのが大枠のストーリーだ。

 社会に出てある程度のキャリアを持つ坂間と山路にとって職場は責任と引き換えに様々なクレームを受ける場であり、坂間は部下の山岸、山路は実習生の佐倉先生(吉岡里帆)の彼氏・静磨という年下のゆとり第二世代に怒鳴られても何も言い返せない不安定な立場に置かれている。坂間はサラリーマンでありながら焼き鳥チェーン店「鳥の民」の店長を任され、山路は学級担任を任され、食中毒の後処理や学芸会の配役で苦労してもそれぞれ立場上言えないことばかりだ。二人は不満をレンタルおじさんや仲間たちの前でさらけ出し、その時だけ真の自分に戻る。彼らに比べれば社会との葛藤が少ないように一見見えるまりぶは、ある時坂間の仕事ぶりについてしみじみと言う。

 

「かっこいいよ。自分にとって大事なものなものちゃんとわかってるし、そのためにハードな状況でズタズタに傷つきながら戦ってるし。

 俺さー、あの店[※坂間が働く焼き鳥屋「鳥の民」]の何が好きかってさ、坂間っちの働きっぷりなんだよね。それを見せたかったの、今日職場の奴らに。

ゆとりゆとり言うけどさ、あんなにゆとりのねぇ奴もゆとりなんだぜって。いろんなとこにぶつかって、皿割って怒鳴られて、タレと塩間違えて水道で洗ってさ、いねぇよそんな奴。向いてねぇよ。でもかっこいいじゃん。あの姿見てたら、おれなんかやらなきゃって思うじゃん。自分探してる場合じゃねぇなって。」(第8話)

 

 まりぶは自分の個性や適性を云々せず一生懸命働く坂間の姿勢を間近で目にしたのをきっかけに「自分探し」を諦め、持論だった「入りたい大学」の東京大学でなく「入れる大学」の東京中央大学に入学したことが最終話で明らかになる。

 しかし、焼き鳥屋でのプロポーズを機に恋人の茜(安藤サクラ)とともに会社を辞職し、実家の酒蔵を継ぐという坂間のライフコースが示すのは、坂間は「自分探し」を断念して仕事を選んだのではなく、むしろ仕事こそが「自分探し」の場となっているということだ。

 坂間は会社を辞めた今後も、「鳥の民」を任されていた頃と同じく懸命に働くだろう。時には仲間達に仕事の辛さを打ち明けるだろう。それらの総体を、彼は自分の人生として選択したように思われる。実家で造る酒の銘柄を「ゆとりの民」と名付けたのも言葉遊びにとどまらず、競争熾烈な日本酒市場でも自分は自分の価値で勝負するのだという宣言である。

 では今後も教壇に立ち続けるだろう山路はどうだろうか。最終回で彼は性教育の時間を使って次のように語る。その授業は通常の性教育のイメージとはかけ離れたものだ。

 

 「果たして、完璧な大人っているのかなって、先生思います。例えば、来年山路30です。みんなにとって30歳って言ったら立派な大人だよな。でもね、二十年後、みんなの二十年後、自分たちが30歳になった時、きっとこう思う。『うーわ、まだ全然子供だよ。山路こんなだったのか』って。『彼女いねえ』とか、『バイト行きたくねえ』とか、『まだ童貞だよ』とか、『山路と一緒かよ』とか。みんなのお父さんとお母さん、完璧な大人ですか?寝坊するよね、酔っぱらって喧嘩するよね、おならするよね。体と違って、心の思春期は生きている限り続きます。だから、大人も間違える。なまける。逃げる。道に迷う。言い訳する。泣く。他人のせいにする。好きになっちゃいけない人を好きになる。すべて思春期のせいです。大人も間違える。そう、間違えちゃうんだよ。だから、他人の間違いを、許せる大人になってください。」(最終話)

 

 山路の提出する大人像は決して完璧な大人ではない。決して甘くはない社会の中で働き、迷い、間違い、傷つき、傷つける人生の総体を、彼は「心の思春期」として力強く肯定してみせる。坂間も、山路も、まりぶも、未だ心の思春期を生きている。彼らは現実から離れることなくその中で自分探しを続け、「ゆとりですがなにか」とまぶしいほどに居直っているのだ。

 

 三谷幸喜脚本『真田丸』(NHK、1~12月)もまた、時代劇・大河ドラマでありながら「心の思春期」を生きる主人公を描いた作品である。主人公真田信繁堺雅人)は、青年時代までは調略の名手である父・真田昌幸草刈正雄)の存在に圧倒され、大坂に上ってからは豊臣秀吉小日向文世)の世話や他武将との調停に追われ、秀吉死後は石田三成山本耕史)の暴走をとどめ、と歴史の大きな動きに流されながら常に二番手・三番手の道を歩んできた人物である。関ケ原の戦いで豊臣方に付き九度山に幽閉を申し付けられるのも、徳川家康内野聖陽)の念頭にあるのは昌幸の存在であり、信繁は父に連座させられたにすぎない(実際、以下の場面で家康は信繁をほとんど見ずに昌幸に語りかけている)。

 

 「戦には勝ったのになぜこのような目に遭わねばならぬのか、さぞ理不尽と思うておろう。その理不尽な思い、さらに膨らませてやる。わしはおぬしから一切の兵と馬と武具と金と城と、そして今後戦に出る一切の機会を奪う。残りの人生を高野山の麓の小さな村の中で過ごすのだ。一、二年で帰って来られるなどとゆめゆめ思うでないぞ。十年になろうが二十年になろうが、おぬしは死ぬまでそこにおるのだ。この生き地獄、たっぷり味わうがよい。真田安房守、二度と会うことはなかろう。」(第37話「信之」)

 

 この家康のセリフが画期的だったのは、大河ドラマの中で、武将にとって戦をすることは必要でも正義でもなく生きる甲斐であると正面から宣言した点だ。『ゆとりですがなにか』の坂間にとって仕事が自分探しの不可欠の要素だったように。戦の機会を奪われ抜け殻のようになった昌幸の死後、『真田丸』は「戦に出る=生きがいを求める」か/「九度山村に残る=家庭を取る」かの困難な選択を下す信繁に焦点を当てる。そして信繁に決断を促す役割を担うのが、作品中での視聴者代表と言ってよい(彼女だけはなぜか現代語で話す)きり(長澤まさみ)である。

 

きり「あなたに来て欲しいと思ってる人がいるんでしょう?助けを求めている人達がいるんでしょう?だったら」

信繁「私に何ができると言うんだ。」

きり「ここで一生終えたいの?あなたは何のために生まれてきたの?」

信繁「私は幸せなんだ。ここでの暮らしが。」

きり「あなたの幸せなんて聞いてない。そんなの関わりない。大事なのは、誰かがあなたを求めているということ。今まで何をしてきたの?小県にいる頃は父親に振り回されて、大坂に来てからは太閤殿下に振り回されて。」

信繁「振り回されていたわけではない。自分なりに色々と考え、力を尽くしてきた。」

きり「何を残したの?真田源次郎がこの世に生きてきたという証を何か一つでも残してきた?聚楽第の落書きの咎人、とうとう見つからなかったわね。沼田を巡って談判もしたけれど、最後は北条に取られちゃった。氏政様を説き伏せに、小田原城に忍び込んだみたいだけど、氏政様が城を明け渡したのは、あなたの力ではないですから。後から会いに行った、なんとか勘兵衛さんのお手柄ですから。

何もしてないじゃない。何の役にも立ってない。誰のためにもなってない。」

信繁「うるさい!」(第40話「幸村」)

 

 しかしこの直後信繁はきりに礼を言い、名前を「幸村」と改名、九度山村を抜け出して大坂城に入る決断を下す。当時の大坂城は秀頼・茶々を中心とする豊臣家と豊臣恩顧の大名の他、諸国から集まった牢人達で膨れ上がり、複雑怪奇な組織となっていた。請われる形でやってきた信繁は父譲りの策を練ってイノベーションをもたらそうとするが、茶々などの度重なる反対に合って撤回を余儀なくされる。しかし信繁は「最後まで望みを捨てぬ者にのみ、道は開ける」と信じ、変更案を提出し続ける。『半沢直樹』(TBS、2013年)で大組織の中の中間管理職を演じた堺雅人の面目躍如とするところだ。しかし豊臣側にしてみれば、信繁の登用は持ち札の中でベターな選択をしたにすぎず、あくまで彼は社会の中で代替可能な武将の一人なのだ。当然、信繁の提案は通らない。

 信繁は大坂冬の陣・夏の陣で大軍を率いて徳川軍と戦うという武将として最高の生きがいを得るが、その代償に命を落とすことになる。最終回、信繁は出陣の直前に「私は私という男がこの世にいた証を何か残せたのか」と問いかける。答えるなら、上杉景勝遠藤憲一)に「武将に生まれたからには、あのように生き、あのように死にたいものだ」と言わしめた信繁の「見事な戦いぶり」は、見る者に証を残したと十分に言えるだろう。しかしそれが信繁の家庭の幸福や生命を贖ってまで手に入れるべきものだったかは重い問いである。たとえ勤め先がブラック企業でも、人は自らの仕事を果たすべきなのか、果たそうとしてしまうのはなぜなのか。この問いの構成は、『真田丸』をまぎれもなく2016年の作品にしている。

 信繁が最後まで望みを捨てず晴れやかに振る舞うからこそ一層、味方であるはずの豊臣側から「徳川に寝返った」と信用されず、アイデンティティーであるはずの策を発揮する余地もなくなり進退窮まって一直線に突撃していく姿に悲壮感が漂う。上杉景勝とともに「さらばじゃ!」と信繁に別れを告げ、われわれは再び現代を舞台とする作品に戻ることにする。(つづく)

総括2016年の文化(中編)

 2016年の夏はポケモンGOとリオオリンピックの夏でもあった。7月22日に日本でサービス開始されたポケモンGOは、スマートフォンの中の日常の風景に違和感なくポケモンを溶け込ませポケモン世代を熱狂させた。約1ヶ月後、8月21日のリオ五輪閉会式では逆に、実物の安倍首相がマンガやゲームの画面に入り込み、マリオとなって東京からリオまで駆けつけてみせた。USJのアトラクションであれPerfumeのライブであれ先端技術の作り出すリアリティーは現実と対立するものではなく、現実と共存する「拡張現実」を構成し、もはやわれわれの現実の一部となっている。

 

 この夏封切られた東宝映画作品『シン・ゴジラ』は、「ゴジラのいる東京」という拡張現実を先端技術で表現し得たことにより大成功した。映画館を後にしてなお、皇居を睨んだまま凍結しているゴジラをポケストップさながら東京駅丸の内口に幻視する者も多かっただろう。「完全生物」と再定義されたゴジラの荒唐無稽な強さに、観客は初代『ゴジラ』に怯えた60年前の人々のように真の恐怖を味わったが、それはCG・モーションキャプチャー・特撮を初めとする繊細な技術の裏付けがあったからだ。

 今回のゴジラの最大の特徴は第四形態まで「進化」を遂げていくことであり、またその過程がCGのコントロールにより現実の映像のようなリアリティーで迫ってくることだが、それは制御化で核反応を増大させていきエネルギーを取り出す原子力と類似する。「ゴジラは人類の存在を脅かす脅威であると同時に、無限の恩恵を示唆する福音でもあるということか」という矢口蘭堂のセリフもゴジラ原子力の比喩を強化している。

 

 しかし、進化するのはゴジラだけではない。ゴジラに対抗する政府側の質が、後半に進むにつれめざましく向上していくのだ。前半、大河内首相率いる内閣は「想定外」の事態に追われて何もできず、学者陣も与えられた入力に決まった出力しか返せない硬直ぶりを示す。大人数での会議も赤坂補佐官が言うように「結論ありきの既定路線」で何も新しいものを生み出せない。

 ところが、二回目の上陸で内閣首脳を乗せたヘリが撃墜され東京が破壊されてから、矢口主導の巨災対を中心として日本政府は見違えるように「進化」していく。フランスの圧力を通じて核爆弾投下へのカウントダウンを延期したのを見て、アメリカ人議員もヘリでカヨコ・アン・パターソンに「日本がこのような外交をするほどに成長したとは―。」と語るほどだ。巨災対は、牧教授の遺した「君らも好きにしろ」という原理で結束したような集団であり(森課長も立ち上げの時「まあ好きにやってくれ」と言っている)、そこでは専門分野を持つ各人がアイディアを話し、それが核反応のように次のアイディアを生んでいく。

 ここで賞揚されているのは、クリエイティビティーを有する個人が集まって起こすイノベーションだ。『シン・ゴジラ』の結末では、硬直した従来の政治手法でなくクリエイティブな労働こそがゴジラを凍結させる。

 

「気落ちは不要!国民を守るのが我々の仕事だ。攻撃だけが華じゃない。」

「礼は要りません。仕事ですから。」

「さあ仕事にかかろう!」

 

 このように、『シン・ゴジラ』には仕事に関わるセリフが多く存在する。しかし、「政治は敵か味方しかいない。シンプルだ。性に合ってる。」と語る矢口を真似ると、『シン・ゴジラ』には矢口の性に合わない仕事と性に合う仕事が描かれている。

 後者はもちろん、「ヤシオリ作戦」に収斂していくクリエイティブな労働=仕事だ。巨災対メンバーや外交に当たる里見首相代理・泉政調副会長ら政府の人間はもちろん、新幹線、米軍戦闘機、在来線、高層ビル、クレーン車といった物たちまでが、普段は考えられもしない=クリエイティブな役割を与えられ、危機回避に貢献する。

 前者は、巨災対が使った部屋を片付ける清掃夫やお茶を出してくれる掃除のおばちゃん、矢口の汚れたシャツをクリーニングする業者、そして何より大河内内閣下の官僚たちの行う「単純労働」だ。これらの労働は、多くは描かれすらせず、または描かれても映画全体の中で意味を与えられない「部分を構成しない部分」をなしている。矢口が「わが国の最大の力は、この現場にある」と演説する時、言葉の裏で「単純な」労働しか行えない労働者は現場にいる必要がないというメッセージを発しているのだ。 

 『シン・ゴジラ』は高い評価を獲得したが、作品を褒める者の口調にまで、「火力/原子力」「単純労働/クリエイティブな労働」の二分法的思考枠組が浸透してはいなかっただろうか。「前作までのゴジラゴジラ映画を単純に反復しているだけだったが、『シン・ゴジラ』は新しいアイディアと工夫に満ちていた真のゴジラ映画だ」、と。これがわれわれの現在である。そして、だからこそ『シン・ゴジラ』は2016年に生み出されたのだ。

 

 同じ夏、『シン・ゴジラ』から約1ヶ月遅れて公開され、瞬く間に興行収入を追い抜いてしまった作品がある。同じ東宝映画作品『君の名は。』だ。公開直前に安倍首相が地球の反対側でPRしたジャパニメーションの実力を示すように、新宿や飛騨地方の風景が本物と見まがう精緻さで描かれ、しかし決して写真にはないノスタルジーが画面に溢れている。デジタル技術が可能にした「拡張現実」のリアリティーは、映画内の出来事を単なるファンタジーにとどめず、われわれの世界の問題として意識させるのに十分だった。

 『君の名は。』で飛来するティアマト彗星は1200年周期で動いており、人間のスケールでは測れない存在であることが明らかにされている。主人公の瀧と三葉は二人で彗星墜落による糸守村民死亡という大災害を起こさないように努力するのだが、本来高校生の努力では何も対抗できないはずのカタストロフィーに対して、彼らに武器として与えられているのがアイデンティティーである。三葉は宮水家という巫女の血を引く者としてヒロインであり、彼女に東京で見初められた瀧は「見初められた」という一点のみでヒーローの有資格者となっている。そして彼らは時を超えて入れ替わるという特性を持ち、入れ替わりにより生じる時間差を利用して大災害を未然に防ぐ。

 不思議なのは、瀧と三葉が電車で出会ったから入れ替わるようになったのか、入れ替わるから三葉が瀧に会いに行ったのか、鶏が先か卵が先かの要領で決定不能になっていることだ。糸守の人々の死に関しても、そもそも大災害がなければ瀧が終盤口噛み酒を飲んで彗星墜落前の糸守に向かおうとするはずはなく矛盾が生じるという意味で、起こったのか起こっていないのか観客は最後まで決定できない。それは彼ら二人の記憶の中では起きており、新聞記事という公定の歴史では「全員避難」と報道される出来事なのだ。三浦玲一はカズオ・イシグロの小説を分析しながら歴史と記憶の違いを次のように述べている。

 

 端的にその違いをのべれば、歴史は、普遍性に開かれており、誰にとっても客観的な判断の対象となるもの、そして、それに対しては真偽判断が可能だと思考されるものである。対して、複数形の歴史もしくは記憶は、同じアイデンティティーを持つ者のみに開かれており、追体験することによってしかそれは正しく理解されることはなく、その追体験の対象としての記憶とは、その真偽を問うことに本質的な意味がないものである。(『村上春樹ポストモダン・ジャパン』p.61)

 

 大災害は起こったのか起こっていないのかという先ほどの問いに戻るならば、それは二人の「前前前世」でのみ起こったのだ。災害で命を落としていたはずの住民は、たまたま村に三葉がいたから、そして瀧と三葉が愛し合っていたから、避難に成功し偶然生きられることになった。しかし彼らは当然「自分たちは瀧と三葉のおかげで助かった」とは気づいていない。その功績もまた、二人の「前前前世」の中のみの話となる。二人の本当の価値は、二人にしかわからない。そして二人ともいつか互いの名も顔も記憶から消してしまう。

 『君の名は。』はアイデンティティー・モデルの自己実現を描くことで、クリエイティブ経済の典型となっている。周囲は気づいていないが、彼らは価値を持っている(何せ一つの村の住民すべてを救ったのだから)。三葉は自分が巫女であることをパッケージ化し宣伝すれば全国に口噛み酒を売り出せると妄想する。瀧はもう慣れ切ってしまったバイトのレストランを辞め、高校時代から興味を持って本を読んでいたクリエイティブな建築業界を志望し就職活動する。友達が内定を増やしていく中、スーツも似合わないし内定も取れていないが「人の心に残る風景を残したい」と強調することは忘れない。記憶の中の名も知らぬ彼女が、自分の価値を知ってくれているのだから。

 『君の名は。』は人の縁をつないでいく糸のイメージで満ちているが、同時にそれがどれだけ弱く細い糸かということも、都市と地方という対比を含めて描いている。安倍マリオが一瞬で通り抜けてみせたこの世界を、われわれは不可能な愛だけを救いとして生きるほかないのだ。ラストで瀧と三葉を出会わせたのは作り手の優しさだろうか批評精神だろうか。いくら飯田橋駅がリアルに描けていても描かれる出来事は彗星衝突や入れ替わり以上のファンタジーでしかない。映画館を後にしたティーンエイジャーが、まだ見ぬ君の名を求めて拡張された現実を生きるとすれば、われわれは彼に何か言葉をかける資格があるのだろうか?(つづく)

総括2016年の文化(前編)

 都市に対する郊外の、ホワイトカラーに対するブルーカラーの勝利―世界史的には、イギリスEU脱退(6月)とドナルド・トランプ合衆国大統領誕生(11月)を決定して先進国内部の格差を浮き彫りにした2つの選挙で記憶されるだろう今年は、日本にとってはどんな年だっただろうか。暮れも押し迫る今、2016年の日本を、1年を象徴する(と個人的に判断する)出来事や作品で振り返ってみたい。

 

 そもそも今年は、平成の連続性を象徴する存在が双方とも消滅を云々された、平成日本の特異年だった。天皇SMAPである。8月8日に発表された現天皇のいわゆる「お気持ち」と、8月14日未明に発表された「SMAP解散決定」速報は、ついに来るべき時が来たという思いを全国民に抱かせた。天皇が退位の意向を抱いていることは以前から明らかにされていたし、SMAPについても1月18日「SMAP×SMAP」生放送でメンバーが公式に解散を否定しても画面の「ポール死亡説」を思わせる演出(木村拓哉のみ白ネクタイ着用、等)が言葉を裏切ってメンバー間の溝を視聴者に伝えていたからである。しかし、様々なしがらみや国民=ファンの願望を背負っているがゆえにただ「辞めます」と言うだけでは辞められないこの二つの存在は、職場の事情や関係者の期待を背負うため「辞めたくても辞められない」日本の労働環境と正確に呼応してはいなかったか。

 

 この夏、第155回芥川賞を受賞した村田沙耶香『コンビニ人間』は、学生時代に周囲に馴染めなかったがコンビニのアルバイトに自分の居場所を見つけ、その後18年間同じ店でバイトを続けている女性が語り手である。彼女がオープン当日のコンビニで自分の存在意義を発見する場面は次のように(感動的に)描かれている。

 

 「いらっしゃいませ!」

 私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。

 そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。(p.20)

 

 語り手は周囲から奇異の目を向けられるのを避けるため、18年間バイト以外就職も結婚もしていない理由を(妹の知恵を借りて)「体が弱いから」と通している。彼女は社会に対する都合良い言い訳として白羽さんというコンビニをクビになったダメ男を家に住まわせるまでになり、その延長で「おめでたい門出」を装ってコンビニも辞めることにする。しかし辞めた途端、彼女は何をしてよいかわからず世界と切断されているように感じ始め、新しい仕事の面接前にふと立ち寄ったコンビニで勝手に棚の並び替えを始めてしまう。

 

 「気が付いたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べて行けなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです。」(p.149)

 

 注目すべきは、『コンビニ人間』の語り手がレジ打ちなどの単純労働のみを機械的に反復しているのではないということである。彼女は陳列の組み合わせを変えることで商品の売り上げが飛躍的に伸びたり、接客サービスの良さを店長に褒められたりすることにこそ喜びを感じている。文芸思想家の三浦玲一はリチャード・フロリダの「クリエイティブ経済」やネグリ&ハートの「生政治的な生産」という概念を援用し、1990年代以降「アイデンティティの労働が価値を生む」という思考が定着したことをハリウッド映画の分析を通して説得的に述べている。

 

 そして、フロリダもハートもネグリも、尽きることなき泉からこんこんと湧き出る水のような夢のエネルギーとして喧伝された原子力が、まるで(鉄腕アトムのように)人間の内部に移植されたとでもいうように、実質的に、無限のエネルギーとしての内在性/クリエイティヴィティが、これからの富の源泉となると主張している[]。それは、われわれの生においてもっとも重要なことは、自身のアイデンティティを維持・管理することだという思考であり、言い換えれば、アイデンティティの維持・管理さえ行われていれば、(それ以外の労働なしでも)われわれは生存し続けることが可能であり、可能であるべきであるという思考である。(『村上春樹ポストモダン・ジャパン』p.57-58)

 

 ここで三浦が「新しい労働」観の誕生を原子力の比喩と並行させていることは重要だ。それはただちにわれわれを、今年の日本映画を代表する2本の作品に導くからである。(つづく)